うん、その通りだ。弥生時代の前は
縄文時代だね。それはまあ、きいたことがある人が多いかもしれない。
さてそこで、
縄文時代と、弥生時代のちがいを考えていこう。時代の流れというものはさ、どこかに区切りがあるわけじゃなくて、ずーっとつながっているじゃない。だから人間はさ、さあ今日から新時代だぞ、なんて思うことはなくて、ただ毎日を生きてるだけだよね。なのに、どうして、ここまでが縄文時代、ここからは弥生時代、なんてふうに区別できるのか、考えてみれば不思議だよね。だから、
どういうことでその二つの時代を分けているのかを、知ってみよう。

普通にはね、その二つの時代では、使われていた
土器がちがうとされているんだ。と言うのはそもそも、縄文と弥生という言葉は、土器の種類の名前なんだよ。
紀元前1万2000年から、紀元前400年ぐらいまでの間、日本の各地では、
ぶ厚くて、表面に縄を押しつけた模様のある土器を作っていたらしくて、遺跡から出土するんだ。その土器のことを、縄目の模様だから、縄文土器と呼ぶわけだね。
それに対して、紀元前400年ごろから紀元後300年ごろまでは、
薄くて、かたくて、表面がつるりとしている土器が作られて、それが遺跡から出土する。そういうもののひとつが、今は使われていない町名だけど、東京都文京区の弥生町というところから出たので、弥生土器と名づけられたんだ。
確かにその二つの土器を見てくらべてみると、縄文土器のほうが原始的というか、できが悪いんだ。ぶ厚いし、焼いた時の温度が低いらしくてやわらかくてモロいんだよ。弥生土器のほうが形もすっきりしているし、薄くてかたくて、こっちのほうができがいいな、という気がするよ。
でも、そういう土器のちがいが、二つの時代を分ける最大の理由ではないんだ。土器のちがいよりも、その二つの時代を区別するいちばんのポイントは、
弥生時代には稲作をするようになった、ということなんだ。先に、発見された土器に名前がつけられていたので、そこから時代の名前をつけちゃったんだけど、いちばん大きなちがいは、稲作をしていなかった時代と、それをするようになった時代、という点なんだね。
稲作、つまり米を作るようになったということは、
人々の生活をとても大きく変えたんだ。だからそのことで時代を区切っているんだね。
ただし、縄文時代は何の文化もない原始的な時代だった、とまでは思わないほうがいいらしいよ。最近の遺跡の発掘や研究によって、縄文時代も後期になってくると、そこそこ文化があったらしい、ということがわかってきているんだ。
まず基本的なことを言うと、縄文時代の人は
狩猟と、食べられる植物の
採集をして食べていた。ここでは、稲作のなかった縄文時代の人が食べていたもののことを考えてみよう。

まずは、
木の実が重要だ。クリ、クルミ、ドングリ、シイノミなどをとって食べていた。遺跡からは、ドングリから作ったクッキーのようなものも出土しているんだよ。
ほかに
植物では、ユリ根、ヤマノイモ、キノコなんかもとって食べていたに違いない。
そして
動物だ。獣や鳥をつかまえて焼いたりして食べたことは確実だね。縄文時代の遺跡からは、石で作った矢じりが出てくるんだよ。つまり、縄文人は弓矢を持っていたってことだ。それで、イノシシ、シカ、ノウサギなんかをつかまえて食べていたにちがいない。いろんな鳥も食べただろうね。
それから、海や川で
魚をとって食べたことは確実だ。縄文時代には丸木舟もあったからね。魚の中でも、毎年川にうじゃうじゃとのぼってくるサケはとてもありがたい食料だっただろうな。
そして、カニやエビも食べた。貝も大いに食べた。貝を食べるとカラが大量に残るよね。それを縄文人はゴミすて場みたいなところにまとめてすてたんだけど、そういうゴミすて場が、
貝塚という遺跡になって出てくるんだよ。貝塚を研究していくと、縄文人の生活がいろいろわかってくるんだ。
そういうわけで、縄文時代にはまだ稲作をしていなかったので、人々は狩猟などによって食べるものを手に入れていた。でも、ものすごく原始的だったわけではない。最近の研究で、縄文時代の後期には、クリの木の、実の立派なものを選んで植えてたことがわかってきて、
一種の原始的な農業をしていたと言われている。それから、船を使って遠い地方と交易、つまり
商売の取り引きをしていたこともわかってきているんだ。縄文人にも文化はあったんだね。縄文人は古代人で、弥生人は文化を持ったまるで別の人、なんていうふうに分けて考えることはもうしなくなっている。その二つの時代を分けているのは、稲作、という文化を持っているか、いないかだけだと考えるんだ。
とはいっても、稲作、という文化を持つというのは、ものすごい大変化なんだけどね。
というわけで、もともとは中国の南部で作られていた米が、
どれかのルートを通って九州に伝わったのだろう、というのが考えられている説だよ。

稲作が伝わってくる、というのは具体的にはどういうことなのか、というのを想像してみよう。それはやっぱり、
人が来て、こういうものを作るとよいぞ、と教えてくれたってことだろうね。おそらく朝鮮半島から、稲作のことをよく知っている人が大勢やってきて、作り方を指導してくれたんだろうな。
わかってほしいんだけど、稲作というのはその時代にしてみれば、ものすごい文明なんだよ。つまり、
最先端テクノロジーが伝わってきた、みたいなことなんだ。
たとえば稲作をするためには
水田がいるよね。どこも同じだけ水につかっていなきゃいけない水田を作るってことは、
土地を水平にならさなきゃいけないってことだよ。それは大工事で、一人や二人の力でできることじゃない。村じゅうの人間が協力しなきゃいけないよね。そして、その水田に水をはるためには、
水路を作って、川から水を引いてこなくちゃいけない。それもものすごい
土木工事だよ。
稲作が始まったっていうのは、そういう
大工事をみんなで協力してやるようになったっていうことで、それまでとは生活が大きく変ってしまうんだよ。その大恋化をなるべく想像してほしいんだけどね。
さて、日本に稲作を伝えた人たちは、稲を持ってきたんだろうか。そうだろう、と考える学者もいる。持ってきて、これを作ろうと教えてくれたんだとね。
でもちがう考え方をする学者もいて、日本にも野性の稲が雑草として生えていたのではないか、と考えるんだよ。雑草の中の一本の草を指さして、これを水田に作って改良していけばうまい米がとれるんだ、と教えてくれたってわけだね。
そのどちらが本当かはよくわかっていないんだけど、ひょっとしたらどちらも本当にあったことかもしれないね。とにかく、紀元前400年ごろから日本人は水田を作って、稲を生産するようになっていったのだよ。そしてそれが弥生時代のはじまりだ。

稲作は、かなりの速度で日本の東へと広まっていったんだそうだ。つまり、
生活が楽になる文化はすぐ広まるってことだね。
1世紀には近畿地方に、3世紀には関東地方にまで広まったというんだけど、いや、もっと早く広まった、と主張する学者もいるんだ。
とにかく、稲作の伝来は、
日本人を大きく変えていった。獲物をとって食べていた時代から、食料を農業で作り出す時代になったわけだから、大変化なんだよ。生活の様子が大きく変るし、村の中での人々の協力のしかたなんかもちがってくるわけだよね。
これは世界のどの地方にもいえるんだけど、人間は農耕をはじめたことによって、人口がどっと増えたんだ。つまり、
農業は人間にたっぷりと食料をもたらしてくれるんだ。多くがそれで食べていけるから、人口は自然に増えていくんだよ。
そういうふうに、紀元前400年ごろに日本人は米と出会ったんだよ。そして弥生時代がはじまり、日本人の生活がガラリと変化していったんだ。
そこで、そういう大変化の中で日本人がどうなっていったか、ということを、次の三時間目にくわしく見ていくことにしよう。それもおもしろい話なんだよ。
(二時間目 終わり)