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BOOK倶楽部TOP書籍成田憲彦
『官邸』をめぐる虚と実  
成田憲彦
2002年2月号


 このたび講談社から、『官邸』上下二巻を上梓させていただくことになった。
 これは私が平成五年八月発足の細川内閣で、細川護熙総理の政務秘書官を務めたときの体験を下敷きに書いた小説である。あくまでも小説であり、フィクションであって、本の最後に編集者が、「この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません」という親切な注意書きを加えてくれたが、一応公式的にはそういうことになる。
 しかし無論、読者も当然細川官邸の内幕を覗く興味をもって読むであろうことは、作者としても意識していないわけではない。先の親切な注意書きを加えてくれた編集者も、私がはじめ登場人物に実在の人物とは程遠い名前を使っていたら、多少それらしい名前に改めるように強く勧めた。私は気が乗らなかったが、娘も「どうせ読む人は頭の中で翻訳しながら読むのだから、多少は似せておいた方が親切で、スラスラ読める」と忠告してくれたし、読者が勝手にモデルを取り違えて、無関係な人に迷惑をかけることも考えられないわけではないから、結局忠告に従うことになった。
 しかし小説のあとがきにも書いたが、私としては「真相」を書いたつもりはない。そもそもどうして小説にしたかというと、「真相」を語らずに済むからである。秘書官はあくまでも黒子であり、身分的には国家公務員特別職で法的には一般職の公務員と違い守秘義務の対象にはならないにしても、在職中知り得たことは最後まで胸にしまっておくのが務めであることは当然だ。
 だから小説という手法を選んで、しかも随所に嘘を交えた。
 例えば細川内閣が取り組んだのは政治改革法案だが、小説中の宗像内閣が取り組むのは、消費税引上げ法案である。その理由のひとつは、政治改革法案だと一般の読者には難しすぎるからである。小選挙区比例代表並立制とか併用制とかでは、予備知識のない一般の読者はついてきてくれない。これに対して消費税だと、問題は新税率を何パーセントにするかだから構図は簡明で、与野党の攻防戦それ自体に焦点が当るようにできる。
 しかし攻防の構図が、実際のものからまったく離れても困る。政治改革では、衆議院の選挙制度について、小選挙区で選出する議員の数と比例代表で選出する議員の数の割合が焦点となった。小選挙区制が有利な野党の自民党は、できるだけ小選挙区を増やそうとし、これを不利とする与党第一党の社会党はできるだけ少なく抑えようとし、間に立たされた細川総理が与党の社会党をなだめつつ、いかに自民党に譲歩するかが攻防の焦点だった。
 小説ではこの構図をそのまま移し替えて使った。新しい消費税率について、当時の税率を三パーセントとし(これは細川内閣当時の税率である)、与党内では新税率を七パーセントとする議論もあるなか社会党(小説中では社民党)の抵抗で五パーセントで決着し、これに対して自民党(小説中では民自党)が七パーセントの対案をぶつけて連立与党を揺さぶるという筋立てにしたのである。
 嘘に戻れば、実際と小説で一番の大きな違いは人物の配置であろう。官房長官であった武村正義氏を、小説では消費税引上げ法案の担当大臣の大蔵大臣に配した。これによって多分永田町ウォッチャーたちが一番知りたがっているであろう武村・小沢関係を消した。
 実際には両者の関係が細川政権に複雑な影やさらには波風をもたらしたことは、当時の報道にもあり、その後の観測や多少の証言も出ていて、私も否定しない。しかし現在通説のように受け止められている構図や、語られている場面などには、不正確なものやあるいはまったくのデタラメといってよいものも多い。細川氏はもともと記憶力のよいほうではないし(おかげで私も例の佐川問題の国会答弁では苦労させられた)、他の当事者も覚えていなくて、今となっては恐らく私しか正確に知る者のいない場面も多くなっているはずである。
 田中角栄氏が死んだ夜に公邸に現れた小沢氏が、「武村を切れ」と細川総理に迫ったとされている場面の真相も、もしかしたら今となっては当の細川氏や小沢氏以上に私の方がよく覚えているであろう。私は二人の会談には立ち会っていないが、しかしこの夜私は小説のなかにしばしば登場する場面そのままに、記者たちの目を避けて小沢氏を公邸第二応接室に入れ、終わって送って出た。そして公邸に戻って、総理から会談の様子を詳細に聞いたし、この問題のフォローも私が担当した。語るわけにはいかないが、真相は言われているものとは随分違っているのである。
 武村・小沢関係を消したのは、ひとつには小説の筋立てという観点からは、それが猥雑なものでしかなかったからである。無論歴史的事実としての細川政権にとっては、武村・小沢関係は本質的だし、考えようによってはそれを抱え込むことで細川政権が成立したとも言える。しかしそれは政治の研究者としての私の領分に属することであり、小説では話を複雑にするだけになる。
 衆議院議長を男性にしたのは、当時の土井たか子議長に失礼があってはならないと考えたからである。議長と総理の関係は、小説の中でもかなり重要なウエイトを占めるが、無論虚実織り交ぜている。その真相の部分も明らかにすることはできないが、『本』の読者のために、今後私が絶対にやるつもりのない小説上の場面と実際の場面の比較という特別サービスをしておこう。
 総理が第二次補正の成立と臨時国会の会期延長のお礼に議長公邸に出掛ける。議長は副議長も呼んでいて、ふたりで気持ちよく迎えてくれる。これらはすべて事実も小説も同じである。小説では、ここで議長と総理の間で次のような会話が交される。
「鷺坂副議長とも話しておりますが、そのうち一献いかがですか」
「ありがとうございます。いつでもお受けさせていただきます」
 しかし事実の世界では、土井たか子議長が細川護熙総理に「そのうち一献いかがですか」などと言うはずはない。本当は何と言ったのか。少なからぬ人が聞いていて秘密でもないから明かしてよいであろう。本当は土井さんは次のように言ったのである。
「赤坂にシュークリームの美味しい店がございますので、今度買ってまいりますから、召上がりにいらしてください」
 もっとも細川総理は「いつでもお受けさせていただきます」とは言わなかった。細川さんもそして私も、大部分の永田町の男性と同様に、実は土井さんが苦手だったのである。総理は言葉を濁しておられた。しかし程なく土井議長からお召しがあり、総理に私も同行して、パトカーの先導で議長公邸にシュークリームをご馳走になりに駆け付けることになった。
 こうまでもしてこの小説を書いたのは、あとがきでも書いたように、やはり日本の政治の最奥の姿を国民に知らせたいと考えたからである。譬えていうと、刀を持った大勢の討手が襖を開ける。奥にはまた襖がある。それを開けるとまた襖がある。そうやって次々に開けて辿り着いて覗いた最後の部屋の姿は、やはり主権者の国民に見せておく必要があるのではないかということである。
 普通はこういう小説は、取材を重ねどうしても分らない部分は想像で書く。しかし私の場合は、総てを承知する立場で、ところどころ、場合によっては大幅に、消しゴムで消していた。何が虚で何が実かよりも、最奥の部屋の様子をじっくり眺めていただきたい。
(なりた・のりひこ 駿河台大学教授・日本政治論)