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BOOK倶楽部TOP書籍城山三郎
老人と犬
城山三郎
2002年2月号


 先日、金田浩一呂さんに会った。隣り町に住んでいるというのに、久しぶりのことであった。
 酒ものまず、ゴルフなどもしないとあって、本を読み、本について談じ続け、いまは文学学校の講師などしている金田さん。
 ベテランの本読みのプロであるだけに、会っている間中、本の話で本当にこちらは堪能した。
 その金田さんが、別れぎわ、さりげない感じで、「最近おもしろかった本」として口にされたのが、テリー・ケイ著、兼武進訳の『白い犬とワルツを』(新潮文庫)であった。
 先入観を与えまいとしてであろう、金田さんの説明は無かった。
 そこで早速入手すると、行儀はわるいが、私のいつもの流儀で、ベッドに横になって読みはじめた。
 妻を亡くした八十一歳の園芸師サムの物語である。
 一匹の白い犬がどこからか現われる。いや、サムの眼にはそう見えているのだが、娘たちを含めて他の人の眼には、一向に見えて来ない。
 結婚生活五十七年。その相手を失なった虚無感は大きい。
 とはいえ、地続きに子たちも住んでいて、すぐには孫の数が言えぬくらい、にぎやかでもある。
 それに、古くからの家政婦も通ってくる。
 また、苗木づくりの腕を懐しんで、かつてのお得意さんが訪ねてきて、注文をくれたりもする。
 まずは恵まれた老後のはずだが、妻コウラを失なった空しさは、埋まらない。
 夢うつつの物語が進む間に、サムの日記が一廻り大きな活字で組みこまれ、効果をあげているが、そこにサムは書く。
「もうこれからは顔を見、声を聞いて、妻を肌身に感じることはできない。妻は川の向こうにわたってしまった。わたし自身がわたるまでは妻には会えぬ。これからは川を見たら妻のことを思うだろう」
 やさしい子供たちとのひとときを過ごした直後だというのに、そうしたことを書く。

 そういえば、私の予科(旧制高校)時代からの学友であるOは、ロマンチストであり、声も大きく豪傑肌。
 私とは肌の合わぬタイプのはずだが、二年間、学生寮の同じ部屋で暮らしたことで、無二の親友になった。
 そして、別に打ち合わせしたわけでもないのに、同じ年に結婚、同じように一男一女を持ち、さらに、同じ年に配偶者を失なった。
「何ということなのか」と、先夜も盃を重ねたが、残された者の生甲斐などあれこれ話しているうち、Oはいきなり、そして締めくくるように言った。
「こっちも早く天国へ行けばいいんだぜ、なぁ杉浦よ。それがいちばんだ」
 ペンネームを剥ぎとった私(杉浦)への呼びかけである。
 思いがけぬセリフに、私は反射的に、
「バカ言うなよ」
 と応じたものの、次の言葉が出ない。
 Oらしくもないと思い、次には、いかにもOらしいセリフだと感じて。
 それにしても、アメリカ人のサムが「川」つまり、三途の川の彼岸的なものを描いているのに、Oは逆に「天国」を口にした。
 二人のイメージするものが全く同じなのか、そうでなければ、どんな風にちがうのか。
 その辺のことを考え出すと、飲む酒が水の味になってしまった。

『白い犬とワルツを』がベストセラーになったのは、コウラという亡妻の描き方にもよる。
 多くの亡妻物語が、人情の常というか、慕情のはげしさのせいというか、積極的に、油絵的に、ああだこうだと妻の魅力を描き重ねる。
 これに対し、『白い犬とワルツを』の場合、淡彩画的というか、コウラが居れば、こうであったろうなどという描き方が多く、亡妻が出ない亡妻物語と言ってもよいほどである。
 そのため、押しつけがましさに似たものを感じさせず、かえって広い層の読者を迎え入れることになったのではないか。

 主人公サムの性格や行動も、魅力的。
 出身校であるマディソン郡の高校の同窓会案内状が来る。幹事はマーサ。男子生徒の間で「高嶺の花」とされたブロンドの髪の美女。
 ただし、会場である出身校までは百六十キロの距離があり、子たちは心配するが、サムは振り切って、一応は整備したオンボロ・トラックに白い犬だけ乗せて出発。
 一日中、ハンドルを握り続けているうち、道に迷ってしまう。
 廃屋を見つけるが、家の様子を調べてみて、安全を考えトラック内でキルトをかぶって眠ることに。つまり、老いてなお、なすべき調査と判断を欠かさない。
 夜間、寒風に目ざめるが、また、うとうとして、コウラと楽しく会話をする夢を見、目ざめると、白い犬がじっと見つめていて、その目の中に「宝石のような」コウラの目が光る――と、また泣かせる。

 いまひとつ、この作品を引っぱって行くのは、サムの老人とは思えぬ忍耐力と行動力である。
 あっちの道だ、こっちの方角だと、振り廻されながらも、さほど腹も立てず、凜としてハンドルを握り続ける。古風なほどの律儀さで。
 それは、一種のアメリカン・ヒーローの姿である。文学好きの読者は、直ちにヘミングウェイの『老人と海』を連想するであろう。
 いや、白い犬を伴に、道に迷って一日走り続ける主人公サムに、作者は、
「老人と犬。行き暮れてか」
 と、つぶやかせる。
 追おうとしてか、超えようとしてか、作者は明らかに『老人と海』を意識している。
 老いてなお、それなりの勇者の生き方があり、白い犬、いや白い犬の幻想を支えにしても、勇者の生き方を目指そうではないか――と、呼びかけてでもいるかのようである。
 なるほど、それはそれなりに魅力的な人生。
 ただ私は若いころから好きだった言葉通りの道を行きたい。
「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く」と。
(つづく)