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文化遺産としての食の知恵小泉武夫2004年7月号


 一九七二年にユネスコが採択した条約に「世界の文化遺産及び自然の保護に関する条約」がある。各国が世界的に貴重な自国の文化遺産・自然遺産をユネスコに報告し登録するもので、各国の資金拠出による世界遺産基金を設けて、その遺産の保護に当てることなどが規定されている。世界的には中国の万里の長城やエジプトのピラミッドなど歴史遺産が有名で、日本でも奈良や京都の寺社、愛知の犬山城、飛騨高山の合掌造り、自然では釧路湿原や屋久島の天然杉などは知られたところである。しかし、文化遺産とはいいながら、食の文化遺産については登録の対象にすらなっていない。「食」は人類が生きていくための基本の行為であり、その周辺には、それぞれの民族による知恵や発想によって貴重な文化が編み出されているにもかかわらずだ。
 今日、生活文化の激変のために、それらの貴重な食文化遺産は次の世代に伝習されることなく次々に消えて行っているのが現実で、悲しいことである。一度消えてしまった文化というのは、再び蘇えることはないのであるから、それぞれの民族にとってその損失はまことに大きい。
 このたび上梓した『小泉教授が選ぶ食の世界遺産―日本編』は、それらのことを鑑みて、これまであまり脚光を浴びることのなかった日本固有の食の文化遺産を幾つかとりあげ、その文化的価値を解説しながら、筆者独自の判断によって日本が誇る食の文化遺産を世界に広く告知することにした。以下に本書でとり上げたなかからほんの数例を示すので、そこから日本の食の文化の驚くべき深さと世界に通じる文化的価値を把握して欲しい。

  〔フグの卵巣の毒抜き〕
「この地球上で最も珍奇な発酵食品は何か?」という質問をよく受ける。私は迷わず「それは日本にある毒抜き発酵食品でありましょう。例えば石川県金沢市周辺の海岸でつくられるフグの卵巣の糠ぬか漬けなどは、世界広しといえども全く他例のない驚くべきものであります。なにせ、あの猛毒が詰まっているフグの卵巣を食べてしまう民族など、発酵の知恵者である日本人以外、見当たりません」と答える。人間が行ってきた食品加工の中に、食材から有毒物質を抜いて食べる「毒抜き」というユニークな技術があるが、中でも発酵法によって毒を抜く方法は、極めて奥の深い知恵を持っている。
 その製法はまず、卵巣を三〇%もの塩で塩漬けし、そのまま一年ほど保存する。その間、二、三ヵ月に一度、塩を替えて漬け直すが、塩の量はだんだん少なくしていくという。塩漬けの期間、卵巣の水分は外に出ていくので、この時、毒もある程度は抜ける。しかし組織に付いている毒はなかなか抜けず、そのまま卵巣に残っている。次に、糠に漬け込むが、この際、少量の麹とイワシの塩蔵汁を加える。こうして糠に漬け込み、重石をして二年から三年間、発酵・熟成させ、製品とする。発酵中の糠みそ一グラム中には凡そ七億〜八億個以上の発酵微生物が活発に活動していて、その作用で毒は残らず分解されるのである。
 この珍奇な食べものの発想の背景には、日本人の食べものに対する飽くなき探究心や、食材利用に対する凄まじいほどの執念、発酵王国としての伝統、周囲を海にかこまれた魚食民族の魚をめぐる意地など、さまざまな思いが織り込まれている。

  〔蘇鉄(そてつ)の毒抜きと蘇鉄味噌〕
 微生物によるこのような「解毒発酵」は、日本には他にもある。南西諸島、例えば鹿児島県奄美諸島や沖縄県伊平屋島などでは、今ではあまり見られなくなったが、蘇鉄の実から毒を抜く発酵がある。
 蘇鉄の実には豊富にデンプンが含有されていて備荒食として飢饉時の重要な食糧ともなってきたが、かなりの量で有毒物質のホルムアルデヒドが含まれており、そのまま食べると中毒する。そこで赤い実を収穫すると、これを二つに割って日に干し、それを甕(かめ)に入れて水を加えて浸し、しばらくたってから水を掬い出して、空気中から侵入した微生物で数日間発酵させる。この発酵で蘇鉄中の有毒物質は微生物の作用で酸化を受け、蟻酸(ぎさん)となり、さらにそれが分解されて最終的には二酸化炭素と水になり、毒が抜けるのである。
 それをよく水で洗い、再び日に干して乾燥させてから臼で搗(つ)いて粉末状にする。これを蒸してから蓆(むしろ)に広げて二、三日放置しておくと、これに麹菌が付いて「蘇鉄麹」ができる。この麹に煮た米および塩を加え、甕に蓄えておくと、今度はそこに耐塩性の乳酸菌や酵母が湧きついて発酵し、特有な香味を持った「蘇鉄味噌」ができ上がる。沖縄島部では、この味噌に豚肉を加えてつくった「アンダンスー」(脂味噌)が茶うけに最高のものだったとされ、そのため蘇鉄の味噌を「チョーキミス」(茶うけ味噌)ともいっていた。
 この毒抜きは、甕の中で発酵を行うが、地方によっては蘇鉄の実を土の中に埋めて、土壌微生物によって解毒する原始的方法もあったそうだ。このような、発酵による植物種子からの毒抜きも実に貴重な技術で、食の世界遺産に登録する価値は十分である。  

〔灰を入れた酒〕
 熊本特産の「赤酒(あかざけ)」と鹿児島特産の「地酒(じしゅ)」は、ともに日本酒に草木灰を加えて造る酒で、このような酒を「灰持酒(あくもちさけ)」という。草木灰を入れた酒は日本だけのもので極めて珍しい。
 熊本の赤酒は色が淡い黄色みを帯びた赤色なので、この名がある。加藤清正が朝鮮半島から伝えたという伝説があり、古くから「肥後の赤酒」として知られている。甘みが強く粘稠性(ねんちゅうせい)を帯びた酒で、正月の屠蘇(とそ)や婚礼などのめでたい席で用いられたほか、みりんと同様に料理の調味料としても利用されていた。現在の生産量はごくわずかである。
 赤酒の原料は米(もち米とうるち米)、麹、大麦、麦芽、草木灰、それに水で、ふつうの日本酒と同様、添(そえ)、仲(なか)、留(とめ)と三回に分けて仕込みを行うが、汲水歩合が五〇〜六〇%前後と水を大幅に少なくした、かなりの濃厚仕込みである。汲水歩合とは、仕込みに用いる米に対する水の量の割合で、標準的な日本酒の場合は一二五〜一三〇%とされる。約二週間かけて発酵させてから搾り、濾過を行うが、麦芽は三回目の留仕込みの時に、草木灰は搾る直前に加える。発酵終了時に草木灰を投入することで、本来は酸性であるもろみが微アルカリ性になり、糖分とアミノ酸が反応して徐々に赤色になる。アルコール分は一〇〜一八%。
 鹿児島の地酒もまた赤色で甘みの強い酒だが、原料はうるち米、麹、焼酎、草木灰、水と、赤酒とはやや異なる。汲水歩合も八〇〜九〇%と高めだ。仕込みは添、仲、留の三段仕込みで、約一ヵ月間かけて発酵・熟成させた後、焼酎と草木灰を加えてから搾る。この地方では昔、清酒を「上酒(かみざけ)」と呼んだことから、それに対する名称としてこの名がついたという。
 このような灰持酒は、明治時代までは地方の名物酒として盛んに造られていたが、現在ではほとんど姿を消している。酒に灰を加える目的は、主として余分な酸を中和して飲みやすくすることだが、防腐効果も見逃せない。また、江戸時代には、変質、腐敗してしまった酒を直す秘伝として、俗に「直し灰」と称する草木灰や蠣殻(かきがら)の灰を添加して酸を中和することも行われていた。今も残るこれらの「灰持酒」は世界中に類例がなく、食の世界遺産として登録したい。

  〔アケビとヤマブドウの熟鮓(なれずし)〕
 青森県弘前市の近郊の村では、珍しい熟鮓がつくられている。材料は熟したアケビとヤマブドウともち米である。漬け物の名は漬けている地元の人たちでさえ誰もが知らぬというところが奇妙なのだが、私は一応「アケビとヤマブドウの熟鮓」とした。山から採ってきたアケビを一〇個ほど用意し、中の種子などは取り除いて皮だけにし、それに熱湯を通しておく。ヤマブドウは粒を房からはずし、きれいに洗って水を切っておく。もち米は洗ってから炊く。
 もち米が炊きあがったら少し冷まし、そこにヤマブドウをだいたい二〇〇グラム、砂糖を大さじ七〜八杯、塩一つかみを配合割合の目安としてつくり、それをよく混ぜる。これをアケビの皮に詰め込み、いくつもつくる。詰め終えたら漬け桶の底に詰め残ったヤマブドウ入りもち米の飯を敷き、その上にアケビを重ねて並べていき、一番上にももち米の飯をのせ、ふたをし、発酵させる。
 秋に漬け込んで正月頃から取り出して食べるが、アケビは美しい赤紫色となり、じつに見事である。それを筒切りにして食べると、酸味がある中に甘味とアルコールの芳香もあり、珍しい風味の漬け物となる。もち米の飯もヤマブドウの紫色で美しく染められてまぶしいほどであった。塩が少ない割に変質や腐敗がないのは、ヤマブドウの酸味のためと乳酸発酵による乳酸のためであろう。熟鮓は、中国や東南アジアにもあるが、この青森県の例のように純植物性であるというのは稀であり、また、今ではつくる人も少なく、ここで記録しておかなければ伝承も不可能となってしまう恐れが多いので、これも世界遺産に登録の必要ありと判断した。
 とにかくこの本では、日本人の発想による貴重な食べ物を数多く紹介している。次の世代に伝えておくためにも。
(こいずみ・たけお 東京農業大学教授)