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二〇〇二年一二月、私を迎え入れてくれたマンハッタンの街並みは華やかなクリスマス・イルミネーションで飾り立てられていました。洒落た装いでデートするカップル、充実した表情で闊歩するビジネスマン、珍しい犬を連れ散歩する気品溢れる老夫婦。同時多発テロのショックもようやく和らぎ、道行く人々に活気が戻りはじめた、そんな時期のニューヨークでした。
アメリカで展開されている最前線の脳研究をこの目で見てみたい、できるならば研究に参加したい、そんな長年の夢を叶えるために渡米を決意しました。期待に胸をふくらませていたのも束の間、私の心はしだいに、華やかなニューヨークの外見とは対照的に、零下10℃にもなろうかという気温なみに沈鬱して行きました。
理由は一つ――言語の壁でした。話したことが通じないのはおろか、相手の話す内容がさっぱり理解できなかったのです。たしかに英語は以前から苦手科目だったとはいえ、中高から手を抜くことなく勉強してきた自負が、私にはありました。しかし、その程度の知識では実際の英会話の場ではまったく歯が立たないのです。注文通りの料理が出てこなかったり、言われた値段と違う金額を払ってしまったり、タクシーで別の目的地で降ろされたり、そんな経験は数知れません。銀行の窓口で完全に相手にされなかったこと、タクシーに乗せてさえもらえなかったこともありました。屈辱です。街角で誰かに話しかけられても、私にできることといえば無意味な笑顔を返すことだけでした。そんな低レベルの英語力では、最先端の科学の現場で目的をまっとうにこなせるはずもないのです。
悶々として送る日々。一ヵ月、半年、一年……容赦なく月日は経ちます。そんなある日、ふと気づいたことがありました。ここからがストーリーの始まりです。
いつものように朝、仕事場に行くとすでに出勤していた研究室のメンバーが私に向かって何か話しかけています。「ハズゴン」。――え?ハズゴン?なんだろう。ドラゴンの仲間かな?俳優の名前?いろいろな考えが頭を巡ります。きょとんとした私の表情からすべてを察した彼は単語単語を区切ってゆっくりと言い直してくれました。「How‐is‐it‐going(元気かい)?」。おお、How is it goingと言っていたのか!
あのときの驚きは今でも新鮮に覚えています。Howisitgoingという四単語からなる文章が、実際に発音されると、元とは似ても似つかぬハズゴンとなるのですから。それからというもの私は人に会うたびに「ハズゴン?」と聞いてみました。皆にこやかに返答してくれます。ハズゴン、ハズゴン。そうなのです!私の話す英語がきちんと通じているのです。あまりの感激に舞い上がるような気分でした。
それにしても「ハズゴン」というカタカナ発音の羅列で通じるとは驚くべきことでした。それは学校で習ってきた英語とはあまりにも違う発音です。そして気づきました。もしかしたら、学校で習った発音は便宜上のもので、アメリカ人たちが実際に話す英語とは違うのではないか、と。
その後、私は自分の耳に聞こえるままの発音を素直に聞くことを心がけました。すると、いままで当然とばかり思っていた発音が、じつは間違っている、あるいはそのままでは通じないことがしだいに理解されてきました。そして、自分の英語はどこがおかしいのか、どうすれば直るのか、そんなことを真剣に考える日々が続くようになります。血のにじむような奮闘の末、私は三つの結論に辿り着きました。
[1]私にはカタカナ発音しかできない(これは日本人として生まれ育ったのだから今さら英語特有の発音を身につけようがないという脳科学的な根拠に基づいたものです)。[2]それ故に私の発音は本来の英語の発音からひどくかけ離れたものであって、アメリカでは通用しない。[3]しかし、私の発音を別のカタカナに置き換えることによって、多くの場合は通じさせることができる。
とくに[3]の結論は重要なものでした。ほとんど諦めかけていた私の英語力ですが、努力次第では実践の場で通用するほどに能力が改善される可能性がある――夢を与えてくれるものでした。絶望のどん底で見た一条の光。期待を胸に私は、自分の研究に専念する傍ら、英語の発音についてもさらに深く考察するようになりました。
幸いなことに私の仕事場には、学生時代に日本語を勉強したことのあるアメリカ人がいました。彼は日本語と英語がどれほど異なっているかをよく知っていました。同時に彼は日本人にとっていかに英語の習得が難しいかも理解してくれていました。親切にも彼は私の英語の発音を逐一修正してくれます。しかも、それは単なる修正ではなく「日本人ならばこう発音すればよいはずだ」という考えに基づいた適切なアドバイスでした。
たとえば、私は脳科学実験に携わる人間ですから「animal(動物)」や「hospital(病院)」といった言葉を日常的に使用します。渡米当時の私はこれをそれぞれ「アニマル」「ホスピタル」と発音していました。学校でそう習ったからです。しかし、このカタカナ発音ではまったく通じませんでした。気落ちした私に向かって、友人は様々な助言を与えてくれます。いろいろと試した結果、これはそれぞれ「エネモウ」「ハスペロウ」というカタカナで発音すればよいという結論に達しました。
え、なんだと?エネモウ?ハスペロウ?そんなバカな!――多くの読者はきっとそう感じることでしょう。しかし実際のところ、このカタカナは見事なまでに適切なようで、私はこれ以降、animal、hospitalを毎回一発で通じさせることができるようになりました。成功率一〇〇パーセントです。
英語の発音を矯正しようと思ったら、まず既成概念を捨てることが肝心だったのです。日本人の感覚的にはanimalは「アニマル」と言ったほうが正しいように思えますが、現実には「エネモウ」と発音しなければ通じないのです。このカタカナの置き換えは一見でたらめのように見えますが、しかし、カタカナ置換には何らかの法則があるのではないかと私は感じました。
そこで次に友人と私が試みたことは法則の抽出です。実際いくつかの法則を見つけることに成功しました。実践で通用するために編み出された「即戦的法則」です。一度「カタカナ発音の法則」を見出してしまえば、あとはそれを応用すればよい――これを境に私の英会話力は見違えるように上達しました。もちろんカタカナを振り当てて発音している以上、完璧な英語の発音というわけではありません。しかし「日本人が英米人に通じさせる」という観点にのっとれば、最適化された法則であると自信をもって言えます。
ある日、日本人の友人に、この法則について話すと予想以上の反応がありました。もしかしたら私以外にも大勢の人が同じような問題を抱えて悩んでいるのかもしれない。そうだとしたら、この成果を私だけに留めておくのはもったいないのではないか――多くの人に相談するうちに、この確信はますます深まりました。そんな考えに導かれ、ついにこの十月、『魔法の発音カタカナ英語』(講談社)を上梓する運びとなりました。
そんな経緯で作られた本ですので、これは英会話の初心者である私が皆さんに贈る「カタカナ発音奮闘記」だと理解していただければ幸いです。そこにはプロの教師が教えるノウハウとは違った、英語初心者ならではのコツや克服法が記載されているはずです。もちろん、すべての人に必要な本ではないけれども、しかし、私のように英会話を諦めかけた経験のある人には読んで頂いて損はないと思います。学校の英語しか習ってこなかった人は、この本を読む前と後とで、英語に対する印象が大きく変わることでしょう。そして実践的な会話力が格段に進歩することと思います。
英語はコミュニケーションの手段です。英語の学習そのものは目的にはなりえません。英語はツールなのです。英語力を磨くことは、すなわち人生の扉を開くようなものです。本書が皆さんにとって何かしらかの役に立つのであれば、それは著者冥利に尽きるというものです。多くの読者皆さんからの喜びや叱咤の声をお待ちしております。
(いけがや・ゆうじ 米コロンビア大学博士研究員)
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