序章 生きることと選ぶこと
「自由」というものが僕たちにとって、とても大切なものに思えるのは、「生きる」ことがほとんど「選ぶ」ことと同じであると思えるからでしょう。
例えば、ある人がいま生きているということは、要するに、自殺しないことを選んでいるということです。生きることに意味を見出せない人間に向かって「死ぬのはいつでもできるんだから生きろ」と説得することにもし何らかの効力があるとすれば、それは生を「自由」という概念で意味づけているからでしょう。つまり、きみはただ生かされているのではなく、生きることを自らの意志によって選んでいる、これからもそれを選び続けることができるだろう、と。僕たちは箸の上げ下げから、恋人の選択まで、たくさんの選択を繰り返しながら生きていきます。逆に言うと、死は自由がなくなるということを意味します。
僕たちが選ぶのは未来です。過去を選ぶことはできません。例えば、どの親のもとに生まれて来るかといったことは選べない。それは運命と言うしかありません。しかし、たとえ自分で選んだものであっても、選択が遠い過去になってしまえば、人はそれを運命と見なすことがよくあります。自分が選んだのではない、もともとそうなる運命だったのだと。もちろん、運命という言葉には「すでに決まってしまった過去を受け容れる」という作用もあれば、「どうせ決まっている未来を諦める」という作用もありえます。
「自由」の持つ力とは何だろう、「運命」の持つ力とはどんなものだろう。その二つを上手く綜合することはできないだろうか。大雑把に言うと、それがこの論考のテーマになると思います。その際、現代の具体的な社会事象や、文学やサブカルチャーなどのフィクション作品について分析しながら、それを例証として用いていくつもりです。とはいえ、天下国家を論じるよりは、個人的な実存のレベルに重心を置いて、議論を進めることになるでしょう。
本のタイトルはあまりいいものが思いつかなかったので、とりあえず講談社BOXっぽい感じで仮のタイトルをつけました。
第一章 悪からの自由
最初の章では、自由と運命という問題系を考えるための導入として「悪」について考えてみます。つまり、人間が犯罪などの「悪」を犯してしまうのは、その人の責任というよりも「運命」のようなもののせいではないのかという問題についてです。
僕がこのような疑問を抱くようになった個人史的なきっかけは、高校生のときに起きた地下鉄サリン事件です。あの事件に関わったオウム信者のなかには「本来は善良な人間であったのに、運命に導かれるようにしてサリンを撒いてしまった人」が含まれていたように思われました。例えば、もともと医者だったある信者は、交通事故で他人に重傷を負わせてしまい、従来の医学では人々を救うことができないと思い詰めて、オウム真理教にのめり込んでいったといいます。彼が、他人を救いたいという善意を持っていなければ、そして、交通事故を起こしていなければ、サリン事件に関与することはなかったのです。
おそらく、人が何らかの過ちを犯すことを運命づけられているとき、彼を悪から救うのは「善」ではありません。なぜなら、ある種のオウム信者はまったく「善意」によって、悪を為してしまったのだから。それならば、悪を為してしまう運命に抗うために有効なのは、何らかの「善」よりも「自由」というものではないのだろうか。
オイディプスの物語などに見られるように、昔から悲劇というものは、主人公が悲惨な出来事の被害者になってしまう物語よりも、生まれながらの「運命」によって加害者になってしまう物語を頻繁に描いてきたのではないかと思います。もちろん、人が予期せぬ事件の被害者になってしまうのは「運命」の悪戯によるものであり、被害者に責任はありません。一方、人が加害者になるときには「自由」と「運命」が複雑なかたちで絡み合っています。
神が人間を創ったのであるにもかかわらず、どうしてその人間が悪を為すのか、神が悪を望んだということなのか。このような疑問に対して、アウグスティヌスという哲学者は、それは人間に自由意志があるからだと答えました。神は人間を、善を為すこともなければ、悪を為すこともない石コロのような存在としてではなく、ときには過ちも犯すような自由な存在として創った。それは人間を石コロのように創るよりも尊いことである。だから、人間の悪について、神には責任がない、と。
人間は運命によって過ちを犯してしまうのか、自由によって過ちを犯してしまうのか、という問いは、おそらくどちらかが正しいという問題ではありません。例えば、オイディプスの物語では、予言された運命に逆らおうとして人間たちが自由におこした行動が、結果的に運命を実現させてしまいます。
そのようなジレンマのなかで、僕たちには何ができるのだろうか。この問いへの一般的な答えは、「自分は自由に行動しているのではなく、運命にしたがっているだけではないか」と常に疑い続けることが逆説的に人を自由へと導く、という懐疑的でメタ的な考え方です。人は多かれ少なかれ「マインドコントロール」されており(「動物化」しており)、本当に自分の頭で自由にものを考えている人などいない、という懐疑的認識は、オウム事件以降、日本社会にある程度広がってきたと思いますが、陳腐になったと言えるほどには浸透していません。それゆえ、まずはこの認識を前提として提示したいと思います。
また、主人公がその「運命」に翻弄されながら誤った道を突き進んでしまう現代の悲劇作品と呼べるような文学作品、サブカルチャー作品にもいくつか触れることができればと思います(例えば『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』)。
第二章 共同体と運命
第二章では、人がある共同体の中に生まれてしまうことを「運命」として捉えたうえで、人はその「共同体=運命」から「自由」になるべきなのかどうかという問題について論じてみたいと思います。
この場合の共同体というのは、国家のような大きなものでもありうるし、故郷や家族といった、もう少し小さなものでもありうるでしょう。例えば、「日本人なんだから日本を愛するのは当然」という考え方は運命論の立場に立っています。その種の「愛国心」を批判する側の論理は「日本人だからといって日本を愛するかどうかは自由だ」というもので、ここでは自由と運命が対立していると言えるでしょう。そこには、日本人に生まれるということは自由に選んだものではないという前提があります。
もちろん、共同体には「家族」や「祖国」のような、生まれながらにして決められた運命的な共同体のほかに、「趣味の共同体」「仲間」のような自発的に選び取った共同体もあります。しかし、そのようにして共同体を選ぶとき、人は本当に自由を行使しているのでしょうか。実は「運命」によって、ある文化集団に組み込まれているだけなのではないでしょうか(例えば『げんしけん』の登場人物は、なろうと思ってオタクになったわけではないから、そこから抜けることもできないと言っています)。
あるいは、もしそれが自由に選んだ共同体であるならば、人はその共同体からさらに自由になろうとする必要はないのでしょうか。僕がそのように問いたくなるのは、共同体内部の価値観を超えたところに、何らかの普遍性(あるいは公共性)があるのではないか、という考えを捨てられないからです。
僕は、知的ものごころがついて、批評や思想の本を読み始めた頃、日本の現代思想を基本的に共同体批判の言説として理解していました。『探究』の頃の柄谷行人は共同体の外部に広がる「交通空間」に普遍性を見出そうとしていましたし、浅田彰が『逃走論』で謳ったのも、共同体から逃げる自由のことだったと思います。蓮實重彦の物語批判、制度批判というのも、やはり共同体批判でした。九〇年代の宮台真司の自己決定論も、本来、その流れに逆らうものではなかった。
しかし、わざわざ外部に出たり、逃走したりしなくても、とっくにそんな共同体はなくなってしまった、というのが今日の状況であるのかもしれません。例えば今、非正規雇用の若者が求めているのは、経済的安定だけではなくて、とにかく会社共同体に所属することです。結局、戦後の日本は、会社と家庭以外に有効な共同体を育ててこなかった。ところが非正規雇用の若者にとっては、会社に属することも、自分の家庭を作ることも難しい。それが「絶望」として語られたりする。秋葉原の通り魔事件を見るにつけ、ネットのコミュニティ生成機能に過度な期待をかけることもできないように思います。
そんなとき、かつてのような共同体批判は、どこまで有効なのでしょうか。人が共同体の運命と共にあることを積極的に求めている時代に、人をその外部に向かわせる自由は、いかなる力を持ちうるのだろうか。というのが、この章での問いです。
また、この章では、共同体的承認によって個人が救われていく様を描いたサブカルチャー作品についての分析を、織り交ぜることもできます(例えば『NARUTO』)。
第三章 自由な恋愛と運命の出会い
第三章はいわゆる恋愛論のようなものです。
今日、親族などによる共同体的な強制によって結婚相手を押し付けられることは、ほぼなくなったと言っていいでしょう。つまり、誰に恋をしようと自由です。しかし、恋愛の自由を得た現代人は、どういうわけかその一方で「運命的な恋愛」を求めています。自由な恋愛と運命的な恋愛は両立するのでしょうか。例えば、「負け犬」と呼ばれてしまった人たちは、いつまでも「運命の人」を待ち続けて、「自由」を持て余してしまった人々のことではなかったでしょうか。
人が愛するのは必ずしも自由に選択されたものとは限りません。むしろ愛という概念は、「自由」よりも「運命」と親和性が高い。例えば、子供は生まれてくる前に、「この人が好きだから、この人の子供になろう」と選んで、生まれてくるわけではありません。生まれたときから誰が親かは決まっていた。それにもかかわらずというよりも、それだからこそ子供は親を愛するのでしょう。おそらく親が子を愛するときも同様で、原則として親は自分の子供を選びません。養父母と養子のあいだの関係が微妙なものになりうるのは、その親子関係に自由な選択の過程があるからでしょう。そしておそらく、養父母が養子を愛するときには、その選択を自由ではなく運命と見なしています。母親が精子バンクのようなところで優秀な遺伝子を選択する未来図が、僕たちをゾッとさせるのは、そこに「運命」ではなく「自由」があるからです。
恋愛関係においても同様で、例えば、ある種のサブカルチャー作品で「幼馴染キャラ」が無敵の強さを発揮するのは、そこに含まれている「運命」の度合いが大きいからです。たまたま隣に住んでいた、たまたま同じクラスになった、たまたま隣の席になった、というようなことは、十分に人を愛する理由になる。もちろん、それらはただの偶然に過ぎず、その偶然を運命だと思い込むのは人間の主観的な「自由」です。しかし、愛するという行為は、ただの偶然を運命であると思い込むことなのかもしれません。
この章は恋愛論なので、恋愛を素材とした作品の批評などを盛り込みやすいはずですが、具体的な作品選択については、まだアイディアが固まっていません。
第四章 自由と可能セカイ
第四章は、この論考の中ではもっとも東浩紀的コンテクストとの関連性が密接な章になるでしょう。ここではまず、第三章で扱った恋愛論の射程をさらに、オタク的な「二次元恋愛」にまで広げていきます。
『動物化するポストモダン』での言葉を借りれば、一般的な美少女ゲームでは「主人公は、各分岐ごとに純愛を経験し、それぞれのヒロインと運命の出会いを送る人物として描かれながら、しかし実際にはプレイヤーが別の分岐を選ぶたびに別の恋愛が運命と呼ばれる、という明確な矛盾を抱える」ことになります。普通、運命という言葉には「そうでしかありえなかったもの」という意味が込められているはずですが、ここでは、複数の「こうでありえたかもしれない」可能世界が、それぞれ「運命」と呼ばれています。つまり、プレイヤーは可能性を選択する「自由」を手放さずに、複数の「運命」的恋愛を味わうことができるのです。
さらに確認しておくと、東浩紀は「キャラクター」というものを複数の可能世界を生きる存在として位置づけており、『ゲーム的リアリズムの誕生』の重要な論点の一つは、もともとの原作が複数の可能世界を含んでいるノベルゲームのみならず、原作が単線的なシナリオ(可能世界)しか持たないマンガ・アニメでも、作品の受け手はキャラクターに刺激されて別のシナリオへの想像力(コミケなどでの二次創作)に開かれるものなのだ、ということでした。
ところで僕は、この「可能世界への想像力」を駆動させているのは、「運命」に対する拒否ではないかと考えていて、今のところ、それに代わる答えを見つけていません。例えば、自分の人生を惨めであると考えている人は、今回プレイしているこの人生は複数あるシナリオのうちの一つに過ぎず、この人生がバッドエンドを迎えた後には、別のシナリオをプレイできるはずだと考えることによって、自らを救おうとするかもしれません。というか、ある種の宗教はそういうものです。つまり、この世では不幸でも、あの世では幸せになれると考えるわけです。人間がときに自殺したりするのは、人生を終わらせるためというよりも、このシナリオを終わらせて次のシナリオに進むためなのではないでしょうか。
ニーチェのキリスト教批判は、その種の可能世界に向けられていたのではないかと思います。ニーチェが説いた「運命愛」とは要するに、この人生が、たとえ運命によって押し付けられたようなシナリオであっても、それを自由に選んだかのように、唯一のシナリオとして愛せということです。「永遠回帰」というのもまた、もし生まれ変わっても、もう一度選びたくなるようなシナリオを選択せよ、なぜなら、どうせまた同じシナリオを選択することになるから、ということだと思います。
東浩紀は「選択のやり直し」としての自由や可能世界の問題について、何度か興味深いアイディアを語っており、僕はそれが十分に展開されるのを待っているのですが、現時点ではその全貌は掴めません。例えば『批評の精神分析』に収録されたある対談では、「僕の人生はすでに十回繰り返されていて、いまがその七回目だとする。僕の哲学というのは、その七回目の人生は七回目なりにグッドエンドを目指そう、みたいな感じ」であり、「ここでのポイントは、人生は何回もやり直しが利くけれども、でも「この人生」「この選択肢の組み合わせ」は今回限りで終わりだということ」なのだと語っています。また『ゲーム的リアリズムの誕生』において、「ほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ」というテーマを舞城王太郎『九十九十九』から読みとっている箇所も、ほぼ同じことを言っているのでしょう。
しかし僕には、この「一瞬」を現実として肯定するために、どうしてほかの物語の展開があることを知らなければならないのかが、よく呑み込めません。普通に考えれば、ほかの物語の展開など無いのだという認識に拠ったほうが、この「一瞬」への肯定は生まれてきそうに思われます。
例えばライプニッツは、なぜ神はこんな悲惨な世界を創ったのかという非難に対して、「神は複数の可能世界のなかから最善の世界を選択したはずである」と神を弁護しました。言い換えると、「ほかの物語の展開もあるがこれが一番マシなので、この物語の「一瞬」を現実として肯定せよ」ということになります。が、これが東浩紀の言いたいことというわけではないでしょう。
複数の可能な選択肢は、どうしても選択肢のあいだの比較を呼び込みます。選択しなかった可能性は、あのときああすればよかったのにという後悔として僕たちにのしかかる。オタクの理想は、あらゆる可能な選択肢を試した上で、もっともお気に入りの可能世界を最終稿(トゥルーエンド)として決定することなのかもしれません。しかし実人生では、人はすべての選択肢の帰結を見通すことはできないので、選択には必ず賭けが含まれます。しかし、選ばなかった選択肢の帰結はわからない以上、この賭けが勝ちだったのかどうかもわからない。
この章で、具体的な作品について論じるとすれば、僕ごときが美少女ゲームについて御高説を垂れても仕方ないので、オタク系文化以外のところから「ゲーム的リアリズム」に相当するような例を挙げることができればと思います。例えば『いま、会いにゆきます』は、バッドエンドに終わることがわかっている選択肢を、過去に戻って再び選ぶヒロインを描いています。また、昨年放送のフジテレビ系ドラマ『プロポーズ大作戦』は、過去を悔やんでタイムスリップするものの、人生のやり直しにおいても、別の選択肢を選ぶことに失敗し続ける主人公を描いた作品でした。
第五章 過去からの自由
第五章は、それまでその人が生きてきた過去を「運命」として捉えたうえで、その「運命」から自由になることの意味を問う時間論です。
東浩紀はやはり『批評の精神分析』に収められたある対談で、「「自由である」ということは、過去の情報を切断することと表裏一体の関係にある」と述べています。その発言における情報社会論的含意はひとまず脇に置いて、ここでは個人の実存レベルでの過去と自由との関係について論じたいと思います。上に引用した発言とは逆に、過去に立脚しなければ自由はあり得ないのではないか、というのがここでの僕の立場になると思います。
もちろん東浩紀も鈴木謙介も指摘するように、ウェブ社会においては「過去」というものがこれまでとは違ったかたちで追いかけてくるということがありえます。例えば僕が「東浩紀のゼロアカ道場」に参加したという事実は、グーグルで名前を検索すれば直ぐにわかってしまうような過去として、これからの僕の人生に付きまってくるでしょう。これが上手くいって誇らしい経歴になるのか、敗れ去って黒歴史になるのかわかりませんが、リスクのないチャレンジではありません。多くの人がそうであったように、「来たれ、新人批評家!」などと言われても迂闊に応募したりせず、生暖かい視線で観戦するに留めておくのが賢明かもしれません。せめて、ペンネームで応募するとか。
過去は過ぎ去り消えていくものと言うよりも、降り積もり蓄積していくものだと思います。そしてその降り積もっていく過去は、未来における僕たちの選択の自由を制限するものでありうる。もちろん、過去はウェブなどにおける情報、データベースとして蓄積されていくだけでなく、僕たちの身体にも蓄積されていきます。
例えば、高校まで野球選手を目指していた人が、大学からサッカー選手を目指すのは難しい。彼は野球選手を目指した過去によって、サッカー選手になる自由を奪われている。ボールを投げる技術は彼に蓄積されていますが、蹴る技術については別です。
あるいは、今日のニート・フリーター問題において、「負け組に再チャレンジの機会がない」と言われることがありますが、そこで語られているのは、「負け組」であった過去によって、「這い上がる」自由が決定的に制限されてしまうということでしょう。
おそらく、昨日まで野球選手を目指していた人が、突然サッカー選手を目指し始めたら、僕たちは彼のことを笑います。サッカーではなく野球を選んだのは君なのだから、サッカーについては諦めろと言いたくなる。しかし、昨日まで「負け組」であった人が、突然「勝ち組」を目指し始めたら、この人は笑われるのだろうか。彼は「負け組」になることを自分で選んだのだろうか。
ところでベルクソンは、時間を過ぎ去るものとしてではなく、降り積もるものとして考えた代表的な哲学者だと思います。だからベルクソンは過去について考えるときには「記憶」や「歴史」としてそれを考えました。
スクリーンに映し出される動画が、毎秒24コマぐらいの静止画の連続であるように、人は時間というものを…→t1→t2→t3→t4→…という静止した瞬間の連続として考えてしまいがちです。
素朴な科学的決定論は、時間t1における宇宙の状態を完全に把握し、あらゆる物理法則を解き明かすことができれば、次の瞬間t2における宇宙の状態を完全に予測できるだけでなく、この時間軸のあらゆる瞬間の宇宙の状態を計測することができると考えます。
逆に、素朴な自由意志論は時間t1と時間t2とのあいだの因果関係を否定し、人間が自由意志によって、次の未来を選ぶことができると考えます。しかし、自由な選択が過去から切断されているのだとすれば、その選択の根拠はどこにあるのでしょうか?おそらく「自分探しが終わらない」のは、過去の自分と「本当の自分」を切断しようとするからです。
要するに、決定論も自由意志論も、時間を諸瞬間の移行として捉えている点では変わりません。t1とt2の間に決定的な因果関係を認めるか、そこに無差別な「意志」を見出すかという違いがあるだけです。
これに対し、時間を降り積もるものとして考えるというのはどういうことかと言うと、例えば、時間t4における宇宙の状態は、直前の瞬間t3の宇宙の状態によってのみ規定されるのではなく、宇宙の始原であるt0から直前の瞬間までに至る、あらゆる瞬間における宇宙の状態の総体によって規定されると考えます。
正確に言うと、ベルクソンは「持続」という概念によって、このような「瞬間」という考えそのものを疑っています。例えば、あるメロディーを聴くときに、僕たちはその瞬間に響いている音だけを聞いているわけではありません(と言うか、音楽のような時間芸術は静止した瞬間においては存在できない)。僕たちは、メロディーのなかのある一音を聴きながら、これまで聴こえてきたメロディーの記憶と、これから聴こえてくるはずのメロディーの期待を同時に聴きとっているのです。それが持続としての時間です。
おそらく、生きるということは音楽を聞くことにどこか似ていて、僕たちは今この瞬間を生きながら、これまでの過去とこれからの未来を同時に生きている。これまでの過去というのは、自分が生まれる前の歴史も含まれます。それが運命というものかもしれません。そして、その運命に根拠づけられながらもそれを変えていく自由は未来の中にある。
過去が僕たちに重たくのしかかって来るのは、今となってはそれを選びなおすことができないからです。時間t1における過失を、時間t2においてやり直すことはできません。しかし、過去はそれぞれの分断された瞬間としては存在せず、総体としてしか存在しないならば、僕たちは、新しい現在をその過去の総体に付け加えていくことによって、過去を変えていけると言えるのではないでしょうか。
ベルクソンは『時間と自由』において、人間の自由な選択を分岐するルートとして考えるような思考を、「時間の空間化」として批判しました。ルートの分岐という考え方は、どこかで「分岐点」となるような決断の瞬間を想定しています。それは例えば、AルートとBルートがあって、どちらに進むか決めないまま分岐点に来たが、その瞬間に決然と決断し、Aルートを選択するというようなことを自由な選択として考えています。しかし、持続としての人間の生にはそのような瞬間はありえません。
タイムスリップの夢は、Aルートを選んでしまった人間が、分岐点に戻ってBルートを選び直すことを可能にしようとするものです。しかし人間の生を、そのような空間表象によって語ることができるのでしょうか。
アニメーション映画『時をかける少女』の主人公は、過ぎ去ってしまった時間をやり直すために、タイムリープを繰り返します。しかし、この映画にはタイムリープで行ったり来たりできる「過ぎ去る時間」のほかに、「降り積もる時間」も存在しています。言うまでもなく、複数の可能世界を渡り歩く主人公の中に蓄積していく「記憶」としての時間です。主人公は複数の可能性を何度も選びなおす自由を享受しながら、やがて、堆積していく記憶の痛みに耐えられなくなっていきます。すなわち、人にこの「一瞬」を現実として肯定させるのは、可能世界への想像力というよりも、何らかの記憶に根ざした想像力なのではないでしょうか。
とは言ってみたものの、この議論がどれぐらい東浩紀の考えと対立していたり、していなかったりするのか、実のところよくわからないのですが。
第六章 自由と運命の美学
自由と運命についての以上のような考え方は、倫理的というよりは美学的な態度をもたらすのではないかと思います。なぜなら善悪というものは、複数の可能な選択肢の比較によって生じるものなのに、「こうであったかもしれない可能性」を考慮に入れるのをやめてしまえば、グッドエンドもバッドエンドもなくなるわけで、善悪を論じることができなくなるからです。
真偽や善悪に比べて、美醜というのは相対的な価値です。僕たちは「真実は一つ」とか「善悪をはっきりさせよう」とか言ったりするかもしれませんが、美は一つではないし、美醜というものははっきりしないものです。「世界で一番美しいのは誰?」という問いの答えが明確でないからこそ、多くの男が自分の恋人こそ一番美しいと信じて満足していられるわけです。
「美しさ」という価値が持つこのような相対性は「寛容」の源泉になるのではないでしょうか。例えば、俺の意見とお前の意見のどっちが正しいかハッキリさせようと論争を仕掛けてくる人はいるでしょうが、俺のカノジョとお前のカノジョのどっちが可愛いかハッキリ白黒つけようじゃないかなどと言い出す人は、普通はいないはずです。
真偽や善悪というものは、根本的に不寛容な価値です。誤りは正されなければならないし、ある「善」を信じる人は、悪に染まっている人間を何とか説得しようとするものです。しかし、ブスなカノジョと楽しく過ごしている友人に向かって、お前本当にあんなブスでいいのか、いい加減に目を覚ませ、などと言う男はいないはずです。まあ、そんなことを言う人もいるかもしれませんが、本気で目を覚まさせようと思っているわけではなく、たんに面白がっているだけでしょう。普通は黙って、微笑ましく見守るものです。善悪と違って、美醜は、別の可能性との比較を必要としません。
人は他人の美的判断、趣味判断に対しては寛容です。もちろん、他人に趣味を押しつける人もいますが、それは本来、美的判断として処理されるべきものを、真偽や善悪の判断と混同しているだけです。そういう人には、大きなお世話だと言ってやるしかない。
さて僕は、人がこの一瞬を、この世界を、この運命を肯定するときには、これこそが「真」の世界であるとか、「善」なる世界であるとかいうかたちで肯定するのではなくて、それを美しいものとして肯定するべきであると思うのです。それは倫理判断ではなく、美的判断であるべきです。その美的肯定は他者の生き方の否定につながらない、寛容なものになりえます。
サブカルチャーに目を向けると、ササキバラ・ゴウは『〈美少女〉の現代史』という示唆に富む本のなかで、少年マンガの主人公が一九七〇年代前半にそれまで信じられていた「戦う根拠」を失い、「美少女」のために戦うようになっていった歴史を記述しています。つまり、皆に共有されている「善」「正義」「大きな物語」を男の子が戦う根拠にすることはできなくなったということです。
しかし、戦う理由を「美少女」に求めなくても、なお、戦う根拠を失っていない少年マンガの主人公は、実は結構います。例えば少年ジャンプの『ONE PIECE』は、歯向かうことの許されない「正義」を標榜する「世界政府」と、主人公の海賊たちとの戦いを描いています。世界政府の不寛容な「正義」に立ち向かう海賊たちが依拠するのは、それに代替されるべき別の「正義」ではなくて、何らかの「美学」と呼ばれるべき個人的な「信念」です。忍者漫画『NARUTO』で言われる「忍道」や、サムライ漫画『銀魂』で言われる「侍魂」というものも、共有されるべき倫理規範ではなく、自分はこうでしかありえないという美学的な信念です。それらは主人公の戦う理由になると同時に、寛容の源泉にもなっています。
善悪の価値が不透明な時代において、このような自由と運命の美学が、ぎりぎりのところで僕たちを支えていくのではないでしょうか。これがとりあえずの結論です。
書評
いつの時代でもそうなのだろうが、近年特に「自由」をめぐる論議は活発化しており、政治思想の分野ではとりわけそうである。最近も、「自由」概念を縦横無尽に論じた大澤真幸の『「自由」の条件』という分厚い本が書店に並んだばかりであった。
「自由」は様々な対義語を持つが、三ツ野陽介『きみの自由と運命』が論じているのは、題名が示すとおり、「運命」をその対義語とするような意味での「自由」である。この捉え方は、鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』に近い。なぜなら、書名からはわかりにくいが、あの本も現代社会における運命(鈴木謙介は「宿命」と呼んでいた)と自由の関係を論じた本だったからである。両者に共通するのは、「自由」を「抑圧」や「強制」の対義語としては考えないということである。おそらく彼らには、自らの自由を抑圧しているものがリアルに感じられないのではないか。だから彼らはその「抑圧」を「運命」として語ることになる。
もっとも、「自由」を論じた同じロスジェネ世代の書き手でも、『フリーターにとって「自由」とは何か』の杉田俊介などは、自分たちを抑圧する犯人、討つべき敵をある程度特定しながら書いているようでもあった。先頃創刊された言論誌『ロスジェネ』も、ロストジェネレーションは失われた世代ではなく、奪われた世代なのであり、俺たちから何かを奪った奴等がいるのだという主旨の巻頭言から始まっていた。この世代の主流はむしろ、こちらのほうにあるのかもしれない。
三ツ野陽介『きみの自由と運命』は実存哲学というのか、生の哲学というのか、なにやらあやしい入門書的な哲学エッセイを中心としながら、それに文芸評論、サブカルチャー批評が申し訳程度にくっついている本である。そのサブカルチャー的教養はやや浅薄で、無理しているという感じはしないが、その筋の読者にとっては物足りなさを感じるところがあるかもしれない。もし、本格的にフィクションの評論をやりたいのであれば、理論編の章と、具体的な作品批評の章を、交互に挟んでいくといった構成でもよかったのではないだろうか。
また、本書での三ツ野は、ある箇所では、同時代の具体的な社会状況を十分に踏まえようする素振りを見せながら、別の箇所では、そんなことはまったくお構いなしといった具合に議論を展開しており、なんだ、世の中をどうこうしたいわけじゃなかったのかと、読んでいて戸惑うこともしばしばだった。
本書が扱っている論題にしても、第一章は倫理学、第二章は共同体論、第三章は恋愛論、第四章はオタク論、第五章は時間論、第六章は「美学」(いま流行りの「品格」とどう違うのかと思ったが)といった具合に、もう何だか目まぐるしく話題が変わっていって、目の回る思いがした。本来ならばそれぞれの章のトピックは、十分に一冊の本の主題に値するものであるはずだが、本書ではそれが十分に展開されないまま、次々と新しい話題が出てくるという印象なのである。本書の中で三ツ野は「こうであったかもしれない」とという反実仮想の可能性を断念することを謳っているように読めるのだが、実際には三ツ野自身こそ、やりたいことがいろいろあって、テーマを絞りきれていないように見える。
もちろん、「自由」と「運命」という概念を、それらの様々なトピックを貫く軸として機能させようというのが、おそらく三ツ野の試みである。私はその試みがまったく失敗しているとは言わない。実際、本書は平易で読みやすい文章で書かれており、その論理展開も鮮やかと思わせる部分がないわけでもなく、すいすいと読みすすめていくうちに、何となく納得させられてしまったりする。しかし、この本に書いてあることは本当に筋が通ってるんだろうかと、何だか騙されているような読後感が残るのも事実である。
例えば、三ツ野は倫理的な問いから出発し、その後も、ところどころでそれに言及しながら、結果的には周到にそれを回避しているように見えるのである。要するに「責任」の問題を回避している。
思えば、九〇年代の左翼が歴史教科書論争などの局面で日本の戦争責任を追求していたとき、右派の側が用いていたのは、当時の日本はああするしかなかったという「運命」の論理である。一方、二〇〇〇年代の左翼が、ネオリベ的な自己責任論に対抗するときに用いているのもまた、「運命」の論理であると言える。すなわち、九〇年代と二〇〇〇年代では、「自由」と「運命」のあいだで、左派と右派の立場が入れ替わっているのだ。
本書を読む限り、明確に言及されていないものの、三ツ野はネオリベ的自己責任論には抗いたいと思っているようであり、それはおそらく本書の執筆動機の一部をなしている。しかし、三ツ野の論理によって道徳責任の問題はどのように論じられるのだろうか。三ツ野はその問いを回避するために、問題を美学的に回収しているのではないかという疑問をぬぐえない。
講談社BOXというレーベルから出た本であるという文脈を踏まえると、この本のハイライトは、東浩紀との対決(?)を試みた第四章ということになるのだろうか。それは自由と可能世界を巡る議論である。確かに、東浩紀の可能世界論への関心は『存在論的、郵便的』でクリプキなどを扱っていた頃から見られるものであり、かつて、複数の可能世界における固有名として論じられていた問題は、複数の可能世界を生きるキャラクターという問題にかたちを変えて、今も東のなかに生きている。その問題意識は『キャラクターズ』という小説にも取り入れられていたし、現在、東が書き進めている小説『ファントム、クォンタム』では、もっと正面から可能世界論を取り扱っているようだ。
私は三ツ野の議論を追ってみて、可能世界というものが持つ力を低く見積もりすぎているのではないかという感想を抱いた。例えば本田透は『「喪男」の哲学史』というユニークな本において、この世界はほとんどの人間にとって「糞ゲー」であり、「永劫回帰とは、モテない人生が永遠に続くのだ、という恐ろしい思想」であるという解説をしている。これは本田透らしい冗談半分の言い方なのだろうが、「モテ」の問題は置くとしても、この世界には、三ツ野の想像も及ばないような悲惨な境遇にある人々がたくさんいるのであり、三ツ野はそのような人に向かっても、何度生まれ変わってもお前はその境遇に生まれるのだから、それを肯定せよと迫るのだろうか。
以上、苦言ばかりを述べてきたが、本書はこれからさらに掘り下げることのできるアイディアを含んでいるように思われるので、今後に期待したい。
(書評の媒体は『SIGHT』、かな)