いくぜ。それでは、これより東西四方に頑敵の撃破を試みることにする。「随分と囲まれてんなァ」と感じた懸命な読者はご名答。その通り、周囲はエラく敵だらけである。ここから始まる旅路は神話の解体である。最終的な目的は、「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの意志の下で閉じた世界を描き続けるセカイ系を脱構築する作業を促すことが目的である。
ふと、日本列島に立って上を向き、そのままフワリと大気圏を突破、重力もなくなったあたりでふと地球を見下ろせば世界は「帝国」という言葉で表象されるグローバリズムの全盛だとかいわれている。それから、もう一度、もといた場所に戻ってみる。日本国の内部には、ロストジェネレーションと呼ばれる世代の有象無象の人々が、うろついていて「若者を見殺しにする国」に成り果てているらしい。と、いうことになっている。小生も、足立区のビンボー具合を探る書籍を執筆して以来、なにかと雑誌からビンボーネタの記事を依頼される。見れば、一時はアウトローとか裏社会ネタで一世を風靡していた大衆向けの実話誌の類でも主流はビンボー脱出ネタとかちょっとした小遣い稼ぎネタがメインとなっている。つまり、一面から見れば、この世には貧困が溢れているとも見ることができる。
ところが、どっこい。今日、只今の自身の周囲で、沸々と怨嗟の声が聞こえていたり、ロスジェネの負け組世代の情念が木霊しているかといえば、そんなことはない。そもそも、情念とは、ペンを使って紙の上で論じるとか、ネットを使って論じるものではなく、五感(場合によっては第六感も)を使って感じ取るものにほかならない。ところが、人を突き動かす情念というやつは、通例、見えないし触れられない。もしも、五感で感じ取ろうとするならば、経験の積み重ねによって、ダイレクトに脳髄に感じ取れるようにするしかない。よって、知識人という大道芸的な商売が成立することになるのだ。感じ取られるようになったら、しめたもので鼻で嗅いでみたり、舐めしゃぶってみたりして、とことん味わい尽くすがよかろう。そうすれば、我々を取り巻く神話の虚実が見えてくる。いや、見えてくるハズなのだが、なにかオカシイ。冷戦構造の崩壊によって、資本主義と共産主義という二元論から世の人々は解き放たれたと思いきや、未だ世界は旧来の対立軸から解き放たれていない。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの手による大著『帝国』が、一時的とはいえブームとなったところなんか見ると、左右の対立軸が存在するという神話を再構築することに必死になっている人々は多いといえるだろう。いわば、伝統芸能の担い手ともいえる彼らは、負け組に強制加入を余儀なくされたロストジェネレーションなる人々と強固に同盟を組み一定のリアリティを発揮している。
冒頭で掲げた通り、神話の解体を是とする本書では、こうした論理に基づいて冷戦の残骸である二元論の対立に終止符を打ち、新たな社会の展開を模索することが、当然の責務となる。そのためには、まず第一章にてネグリ代表される反グローバリズムの論理に批判を加えることにする。テクストは、『帝国』ではなく『未来派左翼』がより、重要な位置を占めているだろう。NHKブックスから本年3月に刊行された本書には「グローバル民主主義の可能性をさぐる」との副題がつけられている。ここに示されているコンテンクストは、簡潔に述べるならば1997年のWTOシアトル会議における大衆運動を契機として、世界には新たな社会運動の潮流が始まっているということである。さらに、それはサパティスタ民族解放軍の蜂起を経て発展を遂げている途上だと捉えられているわけだ。その中で、特にインターネットという新たなツールの進化発展は、これまでにないやり方で、議論や批判を行うことを可能にし、社会運動のあり方自体に変貌を遂げている…。ネグリは、こんな風に捉えている。そして、(少なくとも欧州においては)既存の左翼政党すらも、そうした変貌が起こっていることに、まで理解が進んでいないという事実をつきつけているのである。
小生も、ともすれば、非常にわかりやすいアッチの世界に与したくなっちまうんだが…それも、どーよ?
というわけで、神話を破壊する旅路は、すぐご近所に存在しているらしい問題提起である反グローバリズム運動とロストジェネレーションから出発することになる。その道しるべとなるのは、明治維新以来続く永久革命の
系譜である。小生は、明治維新を近代による封建社会からの解放と捉えている。この中で、重要なのは江戸幕府の打倒による封建社会の解放という部分ではなく、維新に対する第二革命たる明治17年の西南戦争に置かれるべきであろう。教科書的に見れば「不平士族の反乱」。すなわち、維新によって利を得られないどころか、粛清対象とされた人々の最後の抵抗というヤツである。ようするに封建制の残照は、この内戦によって完全に終止符を打たれ、以降、日本は近代国家の道を歩んでゆくことになる…。
しかし、本当にそうか? 別のとらえ方をしてみよう。中央における征韓論に破れ、西郷隆盛、下野。以降、鹿児島は、不徹底に終わりつつある維新のさらなる遂行を目指す人々による革命根拠地となり、日本最後の内戦としての、第二革命が展開されてゆくのである。この第二革命とは、すなわち朝鮮半島、大陸を巻き込んだアジア主義の展開にほかならない。
このアジア主義という概念は、極めて厄介な代物だ。少なくとも、ゼロ年代と呼ばれる現代においても、これらの思想を再び持ち出そうとすれば「右翼」とか「軍国主義の亡霊」との誹りを受けかねない。だが、ここにこそ、小生が目的としている「神話の解体」の第一の目標が示されるわけだ。果たして、征韓論に始まる日本人による朝鮮半島、大陸への視点は今日的には、一切合切取りまとめて帝国主義的な侵略志向として読解されており、評価するにしてもその材料を集めることすら困難を極める。それも当たり前で、戦後の日本は左右を問わず、朝鮮半島と大陸へのアプローチから逃げ出したからである。
戦後のアプローチは、極めて経済的なものに限定されてしまいダイナミズムを失ってしまった。一般的な視点では、日本の左翼に分類される人々は、揃って朝鮮半島や大陸との強固な同盟を持ってきたかのように見られているが、そんなことはない。昭和20年の敗戦によって、断絶した権力によらない政治的交流が復活する第一の機会であった朝鮮戦争の勃発を日本人民は、無為無策で逃げ過ごした。
振り返って、アジア主義の原点ともいうべき天佑侠の存在から論じてゆこう。征韓論以降、自由民権運動へとシフトしていった壮士たちの道程は、教科書的には大阪事件程度しか触れられていない。この陰謀は、大井憲太郎、景山英子らが、朝鮮半島の改革派の盟主たる金玉均らと結んで、朝鮮に立憲体制を築き、その革命を日本へも波及させようと目論んだものである。実際に爆弾を製造してみたり、軍資金獲得のために強盗も繰り返したというから、かなり本気度は高かったようだ。
これに限ることなく、日本と朝鮮半島・大陸の間には民間の政治結社による往来は日清戦争以前から、考えられないほど頻繁に行われていた。そうした運動の中でも、特筆すべきが天佑侠なる一団である。時に1884年は甲午の年、全?準が率いる東学党の乱が発生したことを聞きつけ、釜山にあった大崎正吉らの壮士は、玄洋社の内田良平ら日本国内の人々をもけしかけて、乱との合流を解く。かくて、全?準と全羅北道淳昌にて会見を持った彼らは、清が李氏朝鮮の宗主国として相応しないことを解き、日韓合邦を提唱してゆくこととなる。、時勢を読み切れなかったのか、乱が政権中枢を得るよりも前に、日清戦争が勃発、かくて民衆を始点とする日韓合邦論は、瞬く間に水泡と化してしまった。
その後は、歴史の通りで「日韓合邦」の夢は、時の権力によって「日韓合併」へと簒奪される。そして、東学党の乱が打倒すべき第一の対象として見ていた両班は、日本による併合の後も形を変えながら維持されてゆくことになる。天佑侠の人々は、日清戦争が勃発したと聞くや、「とりあえず、日本軍の力を使って清を追い出してから朝鮮国内の改革派に政権を取らせちまおう」と路線を変更してしまったものだから、今では日本帝国主義の手先との誹りを受けてしまっている。、彼らの志向は前述の「日韓合邦」のを使い「合併」とか「併合」という言葉を使わなかったように、朝鮮半島を日本の植民地として見ていたのではない。彼らにとっての目標とは西南戦争の敗北によって、一国主義に固まりつつある明治維新という革命を、朝鮮半島さらには大陸をも巻き込んで、揺り戻そうという壮大な革命戦略であった。ゆえに、朝鮮半島を巻き込んだ革命戦略が、政府による簒奪、もしくは右旋回によって日韓併合という形で敗北した後もアジア主義だけは、拡大の一途を辿ってゆくことになる。代表的なものを挙げるなら、辛亥革命における宮崎滔天らの活躍があるだろう。日清戦争頃より、中国本土で革命を志す志士たちと交流を深めた。この宮崎という男、中途で革命に見切りをつけ、自分を見つめ直すために浪曲師になってみるなど、破天荒な人生をおくった人物。、浪曲師として謡っているうちに任侠の志を取り戻したのか、再び中国革命に復帰。1905年に東京において中国革命同志会の結成に参画し、孫文を支え辛亥革命への道を拓いてゆくことになる。
、革命が西へ西へと移動すれば、時の権力を手中に収める右からの揺り戻しも、追いつけ追い越せとやってくる。かくして、西南戦争を明治維新に対する第二革命という視点で捉えた時、その残存した革命の動きは太平洋戦争の敗戦まで、永続することになる。昭和維新を目指した二・二六事件や、中野正剛の東方会の動きなども、これに加えることができるだろう。これらの動きは、
けした東アジアのそれも極東地域のみに止まるものではない。ロシア革命と、その後の内戦期に中央アジアで勃興したトゥラン運動、すなわち、アナトリア一帯を故地として国民国家を打ち立てようとするケマル・パシャに対して、トルコ民族による中央アジアを横断する統一を目指す運動にも、多くの日本人が関与していたという事実は、いまでは失われた歴史となりつつある。ロシア革命以降、コミンテルンの結成、トロツキーの登場を待つまでもなく、アジアでは先んじて世界革命が進行していたのだ。このように書きつづっていくと「過去に存在した思想であるところのアジア主義の歴史的検証」ということで、終わってしまう。それではまったく意味がない。前述したように、こうした戦前のダイナミズムに対して太平洋戦争後の60年はいかなる時代だったかといえば、前述のように戦後の日本は左右を問わず、朝鮮半島と大陸へのアプローチから逃げ出していたわけである。日本の戦争責任は、いわゆる左翼と呼ばれる人々が生業の上で大きな看板として掲げているものだ。、敗戦によって揃って方向を転換して「一億総ざんげ」が、始まったわけでもない。論壇ブームの一翼を成している格差社会・貧困・ロスジェネ等は、いずれもダイナミズムを持たない台所論理的な運動と化している。、この運動は論壇を活発化させる材料となっているらしい。本年に入ってから創刊された二つの雑誌『m9』(晋遊舎)と『ロスジェネ』(かもがわ出版)は、いずれも、いわゆる「負け組」を主題とし、そのテーマに即した論客を集めている。ここでの「負け組」とは、すなわち格差社会が進行する中で、下層に固定化されつつある人々を指すわけだが、代表的な論客としては赤木智弘と雨宮処凛の名前が挙げられるだろう。、ダイナミズムを持たない彼らの理論は、理解され、道場はされども一定以上に共感をもたらすには至っていない。厚生労働省の調査では、日本における派遣労働者の数は、約236万人。うち、日雇い派遣労働者約5万1000人で、平均月収は約13万3000円。また派遣労働者133万人の平均年収は100万から300円程度とされている。これが、いわゆるワーキングプアの実体だ。ネグリは、こうした新たに創造されつつある貧困層を指して、プレカリアート(非正規雇用者など不安定労働者)と呼ぶ。雨宮は「生きづらさ」という言葉を用いて、新自由主義を批判することで、
その問題点を追及している。、
果たして、この市井の人々はそんなに「生きづらさ」を感じ取っているのか? もとい、
「生きづらくない」世界というものは、本当に存在しうるのか。小生、足りないアタマを使って「生きづらさ」の存在しない世界を想像してみたのだが、どうも思いつかない。(毎日、昼時になると神田の藪そば、もりが3枚届くならば、たぶん「生きづらく」はないだろうね!)
グローバリズムの対抗の好例としてあげられるのは、1999年にジョゼ・ボヴェと首魁とした、フランスはラルザック地方の農民叛乱だ。ご存じの人も多いだろうが、この叛乱の契機となったのは欧州連合が、アメリカのホルモン肥育牛肉の輸入を禁止したの報復として、フランス産のロックフォールチーズに対して100%関税を課したことが発端である。自らも口にしないような、奇妙な牛肉を売りつけておいて、オラが村のチーズを売らせないとは、どういうことだと怒った農民たち。さて、この怒りをどうやって海の向こうのアメリカ合衆国にわからせるかと、ひとまず思案。すると都合よく、近くの街には建設中のマクドナルドを発見。かくて、ピクニック気分の家族連れで訪れた農民たちにの手によって、「多国籍企業による文化破壊の象徴」たるマクドナルドは、綺麗に破壊されたわけである。
ところで、ダイナミズムが消滅してゆく過程もまた、敗戦でガラガラと音を立てて崩れたものではない。これを示す好例を挙げるとすれば、映画『日本沈没』ではなかろうか。
小松左京原作の、この映画、森谷司郎監督版では、いよいよ日本が沈没しようというする刹那、日本列島と運命を共にすることを決めた田所博士は、「日本人はこれまで子供だった。なにかあると四つの島に逃げ帰って…母親の懐から出ることができなかった」と、故国を失った日本民族が、これから世界で揉まれて成長してゆくことに希望を託すのである。ところが、樋口真嗣監督版には、小生も唖然とした。(東宝の試写室で拝見したのだけど、後ろに座ってた某女流映画評論家は、顔が夜叉になっていた)なにせ、日本が沈まないのだから…。主人公たちの必死の活躍によって、日本は沈没から免れ、生き残った人々は希望を胸に感じつつ物語は幕を閉じるのである。(まあ、確かに、これはこれでいいかも知れない。リメイクでの改変を、やたらと騒ぎ立てるのは、マニアの悪い癖である) ここから学ぶべきは、フィクションにおいてもセカイ系的なあり方が、すんなりと受け入れられる素地が、いわゆるオタクカルチャーだけではなく、一般社会でもスタンダードになっているということである。さらに一歩進んで、一般社会はセカイ系的存在であろうと志向しているのではなかろうか。ここで示しているセカイ系とは、すなわち「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」から一歩進んで、世界を自分の周囲にしか存在し得ないローカルなものとして規定しようとする意志とその表象として捉えてもらって構わない。
そして、文化的側面ではなく、その志向は極めてアクチュアルな政治領域で進行を遂げている。社会生活の中の日常で接している世界は極めて限定的な交流しか持つことができないものだ。インターネットは確かに世界をネットワークで結び、地球規模で瞬時に情報交換を行うことを可能にした。サパティスタをはじめとして世界の情勢は、すぐ手の届く距離に存在している。、極めて限定的な世界に暮らす我々自身は、その世界との間に扉を開くことはない。インターネットに接続されたパソコン、もとい携帯電話を所有していれば、我々は世界の様々な政治的・文化的状況とダイレクトにコンタクトを取ることが可能になっている、のにも関わらずである。社会は、自分の周囲という小さな世界、極めてローカルな空間から、どのようにして異分子を排除し防衛するかに血道をあげるようになってきた。2000年以降、一種のブームのようになった繁華街での監視カメラの設置、体感治安といった言葉で代言される治安管理ブームは、ローカル化する世界に正当性を与えている。こうした状況下においては、いかにワーキングプアが増加しようとも、社会総体の問題として共通認識をもたれないことは、当然である。『未来派左翼』において、ネグリは相続税の廃止を約束してベルルスコーニが選挙に勝利するイタリアの社会を「まったくもって異常ですよ」と評している。これは、ある意味、旧来の左翼的なあり方が形を変えても、21世紀においてリアリティを持つムーブメントになりえるという希望を持っていたネグリの敗北宣言といえるだろう。現代でもまれに見る碩学の口を持ってしても「まったくもって異常ですよ」としか表現できない現代社会、(現代思想的な用法での)物語は、もはや消滅しきっているのである。こうした世界の中では「生きづらさ」というダイナミズムの欠片も見られない個人的問題が、政治的課題となるのも当然といえば当然だ。こうして、ローカライズされた個別の世界において、それぞれのローカルを繋ぐ回路となるのは、共通認識を持っているか否か、だけである。この、共通認識というものが、「神話」の正体である。フランスにおける「レジスタンス神話」に見られるように国民国家は、巨大な規模の「神話」を持たせることで、ローカルな共同体を創りあげてきた。20世紀においては、世界は左翼と右翼、もしくは自由主義陣営と共産主義陣営が対立するという「神話」が世界を包み、対立軸の存在にリアリティを持たせていた。しかし、冷戦構造の崩壊は、時として歴史学を単なる政治闘争の材料とする危険を持つ歴史修正主義への危惧を孕みながらも「神話」を検証し、破壊し、そして新たに創造する機会を提供してきている。2008年現在、国民国家を統合する「神話」は崩壊し、世界を統括できる巨大なレベルの「神話」も存在してはいない。ゆえに、社会運動もまた、「生きづらさ」の言葉に表象される、個人主義レベルにまでローカルな地点にまで後退せざるを得ないわけである。
さて、本書の目的はローカル=過剰な個人主義として、ケシカランとすることではない。
ここからが、ようやく本題である。
例え、どんなに扉を閉め切ったとしてもグローバリズムは、アメーバのようにローカルの中へと介入し、浸食する。こうしたローカルとグローバリズムの対立が、日本において具現化している例を示すとすれば、児童ポルノ法をめぐる問題を挙げなければならない。
そもそも児童ポルノ法の問題とはなんなのかを、説明ておこう。現在、日本では児童ポルノの単純所持、すなわち所有すること自体の禁止を実行しようとする主張が広まっている。本来、児童を性的搾取や性的虐待から守ることがさらに、マンガやアニメ、ゲーム等の創作物も児童ポルノに含めるべきだという意見も根強く出ている。ところが、その規制論は極めて危険な方向へと進んでいる。
法律の文脈は極めてあいまいで、なにが規制されるのかも明確ではない。解釈次第では、
アイドルの水着写真も児童ポルノとされる可能性もある。さらに、警察の恣意的運用の危険性も指摘されているところだ。こうした、
市民社会に対する権力の過度の介入への危惧は、なぜか議論の表舞台には立たず。規制の欲望だけが一人歩きしているのだ。
そもそも、ガソリン税の問題などからすれば非常に矮小な問題に過ぎない、この法律をめぐる論争のきっかけとなったのは、やはり日本国外からの攻撃である。本年1月、読売新聞に掲載されたアメリカのシーファー駐日大使による「日米は児童ポルノの二大消費国」という寄稿をきっかけに活発化する児童ポルノ法改正に向けた動きが。新聞報道等によれば、与党と民主党はそれぞれ改正案を討議するPT(プロジェクトチーム)を設置して、議論を行っている。
規制を進める人々は「G8の中で、単純所持を禁止していない国は日本とロシアだけ」だと盛んに主張する。この、児童ポルノ法、正確には「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」と呼ばれるこの法律が成立したのは1999年のこと。この法律が成立した背景には、1996年にストックホルムで開催された「第1回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」で日本人によるアジアでの児童売春や日本製の児童ポルノに対して厳しい批判が寄せられたことがあった。単純所持と創作物規制の問題は、制定時にも導入するか否かをめぐり議論が紛糾。以後、法律の見直し(条文に3年ごとの見直しが明記されている)が行われるたびに、この問題は激しく議論が戦わされ、見送られてきた歴史がある。「導入していないのは日本とロシアだけ」といわれる単純所持。ところが「児童ポルノは持つのもダメ」とする国々の様子を見ると、その内容は様々。「なにが児童ポルノになるのか?」といった実体も随分と異なるというにも関わらず、である。
この問題を通じて、小生はグローバリズムの攻勢と対峙せねばならないのであると感じ取っている。
この問題の矢面に立たされている主要な部分である、オタクという存在は、政治の季節の終焉と共に勃興し、非政治的な実存を提起することで進化を遂げてきた。彼らは、その誕生以前から個人主義的であり、ローカルな存在であった。そこには、冷戦構造の崩壊以前から、左翼と右翼という前世紀的な対立軸は存在していなかった。にも関わらず、グローバリズムの攻勢と対峙させられている状況は、いささか漫画的ともいえるだろう。本書がめざすところは、オタク論ではないので、
オタクの史的展開については言及することをさける。ただ、明治維新以来の革命の展開を表象するものが、このオタク文化の中にも見受けられることは間違いない。近代主義に純化してゆくことを至上の命題とした大日本帝国〜日本国の流れの中で、その中から聞こえる民衆の憎悪=ルサンチマンは、時としてエネルギーとして爆発し、組織化されてきた。西南戦争にはじまるそれは、西南戦争の敗北によってアジアに広がり、敗戦と共に日本列島の中へと収縮した。そして、戦後60年あまりの中では1969年をピークとする「政治の季節」という形で爆発し、再び収縮した。
そして、情報化社会の中でルサンチマンは、ローカルの中小さな爆発を起こしながら、維持され続けている。セカイ系に分類されるライトノベル『灼眼のシャナ』は、第16巻において、主人公・坂井悠二を巡る三角関係を悠二自身に決着をつけさせ、さらには彼が自らの意志で、これまで敵対してきた紅世の徒の陣営に身を置くことを選択させるというストーリーが綴られた。これは、それまで主人公とヒロイン・シャナを中心に小さな地方都市を舞台に描かれていた作品世界を破壊したと読みとって間違いないだろう。つまりは、「家族」とか「友情」というものが、このまま永遠に続くと思われたローカルと、グローバリズムを隔てていた壁を主人公自らが打ち砕いた下りなのである。
オタク文化こそが時代の変革の担い手になるとか、大言壮語を吐くつもりは毛頭無い。日々の日雇い労働で「生きづらさ」を感じ、自分たちは負け組として固定化されつつあるという「神話」の中で、右往左往するしかない旧来の社会運動よりも、グローバリズムの攻勢に直面していることは間違いないだろう。
小生は、ローカルという言葉で表象される小さなコミュニティが存在すること自体を否定するつもりはない。コミュニティの中で、共通言語を持つもの同士で小さくまとまっていることは心地よいものだ。だが、そうしたコミュニティが維持されてゆく前提として、それぞれが存在を認め合い、結合してゆくことが必要になるだろう。先に叙述したように我々をとりまく世界は、共通言語を持たない他者を認めることに対して臆病になっている。多文化主義と大上段に構える間でもなく、互いの存在を認め合う、新たな理念をどのように創造してゆくのか。これこそが「神話の解体」の後に行うべき最初の作業である。
書評
「神話」の解体の先に待つのは、なにか。本書を手にした時、筆者は行間からにじみ出るルサンチマンに、吐き気すら感じてしまった。
昼間は本書の中で、「近代主義に純化してゆくことを至上の命題とした大日本帝国〜日本国の流れの中で、その中から聞こえる民衆の憎悪=ルサンチマンは、時としてエネルギーとして爆発し、組織化されてきた。西南戦争にはじまるそれは、西南戦争の敗北によってアジアに広がり、敗戦と共に日本列島の中へと収縮した。そして、戦後60年あまりの中では1969年をピークとする「政治の季節」という形で爆発し、再び収縮した」という形で、時代の変遷、すなわち社会変革のムーブメントであり、革命を志向するものの原動力がルサンチマンであることを指摘している。同様の指摘は、古くは平岡正明が『西郷隆盛における永久革命』でも行っている。平岡は明治維新以降の「日帝」の国内的再編成が、旧社会の残存物を包括した上に独占をすえた形で成立したと看破し、その中で、旧社会の残存物として割を喰う側に廻った人々の、うらみつらみ、すなわちルサンチマンが、
西南戦争の原動力となり、アジア主義を形成していったと解くのである。
一方、昼間は本書の中で前述の通り、明治維新で形成された「負け組」のルサンチマンは、太平洋戦争の敗戦を経ても滅びることなく、現代にも脈々と受け継がれていると述べる。つまり、昼間の論理では、共産主義革命を目指した「政治の季節」もまた、「反近代」の志向が根底に流れていたということになる。そして、そのルサンチマンは、経済発展の中で「勝ち組」の側に廻ったかと思われる
オタク文化の中にも内包されているということらしい。その証左としてあげられるのが、セカイ系の文学が是とし、題材とする「家族」「友情」「恋」といったキーワードを破壊しつつあるということなのだ。いうまでもなく、これらのキーワードに限らず、自分と他者との繋がりを如実に示すことで綴られるのが、セカイ系の基本的な世界観である。昼間はその世界観自体が、作者の手によって崩されつつある現状をもって、ルサンチマンが再び浮かび上がろうとしていると、主張したいらしい。どうも、「ルサンチマンの復興、すなわち“反近代”の志向は、再び世間様から注目を集めるようになる!」という思いこみのもとで、必死に自身の論を裏付けるために、都合のよい材料を集めようと努力していると、読めなくもない。
昼間は、国民国家をはじめとする特定の集団が持つ共通認識を「神話」であると表現し、それを一旦破壊することによって、新たな思想の発展があると期待しているようだ。そのために、彼はやたらとアジア主義を初めとする「反近代」の思想を重視する。そして、現代の「神話」になろうとしているプレカリアートを主軸とする言説に対して懐疑的な姿勢を見せるのである。だが、本書における彼の文章を読んでいて、なぜ懐疑的な姿勢を持とうとするのかを、筆者は理解し得なかった。彼は執拗に、ローカルな存在になりダイナミズムを失いつつある日本の社会運動を攻撃し、個人的な「生きづらさ」を語るワーキングプア層の主張には、魅力がないことを述べる。そして、それらがダイナミズムを持たないものであるとするのだ。つまり、彼にとってアクチュアルな政治とは、人間という存在を抹消した極めてシステマチックなものではないかとも読みとれるのである。すなわち、ルサンチマンを感じているのは昼間自身であり、彼自身が「反近代」を目指しながらも、じつは非常に近代主義的な志向をもっているに違いない。いわば、彼もまたワーキングプア層と同じく、絶望工場の虜囚となっているといえるのではないだろうか。格差社会の「負け組」が引き起こしたとされる、様々な事件が発生するたびに「なぜ、その怒りの矛先を一般市民ではなく、権力にむけなかったのだろうか」という疑問は必ずといってよいほど提示される。昼間自身も、そうした事件の犯人と同じメンタルの持ち主なのではないだろうか。いうなれば、彼の述べるところのルサンチマンと呼ばれるものは、実に単純で、卑屈なものとして一般社会に矛先を向けているのだといえよう。ルサンチマンを抱えた人間といえば、昨年、『論座』に掲載された論文「希望は戦争」を契機に、一躍、論壇の寵児となったフリーター・赤木智弘がいる。彼が上梓した書籍『若者を見殺しにする国』の中では彼の前半生も描かれている。専門学校卒業後に帰郷し、現在もコンビニエンスストアでのアルバイトが主な収入となっているという赤木の描く半生は、非常に生々しく、バブル経済崩壊後の不況の間に、いかに多くの人々が見捨てられたかを示す説得力のある内容となっている。自身の人生を描く行為は、ともすれば安易な自分語りに陥りやすい。これは「戦争にしか希望をもてない」とまで言い切った彼ならばこそ、できた行為であろう。赤木は自分自身を描くことで自身の人生を意図するかしないかは別として政治と直結させている。社会変革におけるダイナミズムとは、こうした個人的なことの集合体として表出されてゆくものではなかろうか。そこに、ダイナミズムを感じないからダメだという論理を持ち出されても、説得力は微塵も感じない。昼間には「木を見て森を見ず」という言葉がぴったりと似合う。彼には未来を見据えるという志向が存在し得ないのか? もしくは、自らは「勝ち組」の側に立っていると錯覚した上で、こうした論評をおこなっているのだろうか? 昼間の人生に興味があるわけではないが、如何にして、自己意識が肥大化し、社会に対してルサンチマンを抱くようになったかは、少々興味がある。 もちろん、彼自身もローカルな空間のみで「神話」を創造してゆく現状がいつまでも、継続するとは思っていないようだ。そこで、彼はグローバルな視点から攻撃を受けているオタク文化を持ち出し、ここから革命が始まるかのようなアジテーションを振りまくのだ。にも関わらず、彼はここでオタクが近代主義の発展に伴って勃興したのか否かを、明確に検証し損なっている。もし、こうした論証を行うのならば、オタクの源流は近代以前に存在したことから述べなければならないのではないか。オタクの源流は、江戸文化にあるのではないかという言説は、かつて岡田斗司夫が『オタク学入門』で述べられて以来、広く人口に膾炙している。さらにいえば、明治以降、江戸文化の中で消費される存在だった浮世絵は、海外からの注目を集め、買いあさられ、多くの作品が各国のコレクターたちに所有されている。そして、現在ではオタク文化の中でも同様の事象が起きているのだ。
大手古書店である『まんだらけ』のオークションでは宮崎駿監督の絵コンテとはじめ、文化的価値の高い資料が数多く出品されているが、それらのほとんどは海外のコレクターによって購入されている。こうした、ひとつの文化の中から見えるグローバリズムこそ、詳細に検証する余地がある。さらにいえば、オタク文化の殻に閉じこもることなく、広くマンガ・アニメの世界的状況を描く必要があったのではないだろうか。昼間の思考の中では、オタク文化というものが、日本の中だけで完結しているようにも見えてしまう。
なによりも、もしルサンチマンと「反近代」とを結びつけた言説を展開するならば、もっと丁寧な検証が必要なのではあるまいか。本書による歴史的な部分の論理展開は、いささか乱暴すぎるのだ。
少なくとも、西欧においては「反近代」の枠組みは、一定の研究成果を持っている。昼間が、「神話を解体」する実例として、(本書に限らず)幾度も持ち出すのは、フランスにおける「コラボラトゥール(第二次大戦中の対独協力派)」の存在である。第二次大戦後のフランスでは、ヴィシー政権下においてフランス国民はこぞってレジスタンス運動に参加したことになっている。フランス人は、1944年のパリ解放と共に、コラボラトゥールの存在を抹殺したのである。セリーヌ、ドリュ・ラ・ロシェル、ロベール・ブラジャックらに代表されるファシズムの側に立つ文学者たちは、「ナチ」「コラボ」「反ユダヤ主義者」といった烙印を押され、その名前すら口にすることがはばかられてきた。しかし、彼らの文献は、戦後一貫して読み継がれているのも事実である。日本において翻訳出版されているものは、国書刊行会の『もうひとつのフランス』シリーズ程度であり、その神髄に触れるのは極めて困難である。そうした中で、同シリーズの別巻として刊行された福田和也の『奇妙な廃墟 フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』は、負の烙印を押された作家たちの評伝として、極めて簡潔に記されている。この中で、福田はスペイン戦争におけるロベール・ブラジャックの動向を挙げ「青春の歓喜としてのファシズム」を提起する。ともすれば、悪意のある中傷に晒される危険のある「ファシズム」の意義を冷徹に分析し擁護すること。日本では、この福田の一冊をのぞけば明確に書物になっているものは少ない。こうした書籍を目にすると、やはり昼間の言説は安易に思えてしまうのである。
昼間は2007年に出版された永山薫との共著である『マンガ論争勃発』の中で「人の話を聞く」ことをテーゼとして掲げている。そして、現在もジャーナリズム的な活動の中では、これを第一義にあげているようだ。しかし「人の話を聞くこと」はテーゼとなり得るのだろうか。彼は、そのためにあえて意見を明確にすること避けているように思える。
そうした極めて、卑怯で卑屈な態度が論評の中にも現れているのだ。彼は「人の話を聞くこと」から、対話と相互理解が生まれ、対立は発展的に止揚されるのではないかと期待を持っている。しかし、彼がライフワークとしているらしい児童ポルノ法をめぐる問題で、対話と相互理解は成り立っているのだろうか? 政治的な場面において、対話と相互理解は単に安易な妥協へと堕ちてゆくだけなのではないだろうか。もし、現状に対して変革を求めるのであれば、対峙している人々の思考を理解するのは当然である。だが、自身の論理を明確にしないことは、やがて相手に取り込まれてしまう危険性をも孕んでいるのではなかろうか。
昼間が「神話の解体」という言葉で述べる、小さなコミュニティごとに分断されてしまった共通認識の解体。これ自体は非常に有効な作業かもしれない。にも関わらず、彼はなんら明確な、その後の展開を提示しない。その先に待つのは自由な空間ではない。破壊と混沌だけである。ルサンチマンが存在することを明示するだけでは、リアリティはなにも生まれない。彼の求める「なんでもアリ」の世の中の結末は、結局は秩序のない世界を生むだけである。一方では「対話」を主張しながら一方では安易な「破壊」だけを先行させようとする思考の幼稚さ。まず、脱構築される必要があるのは、彼の思考そのものである。
『群像』(講談社)