第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

学谷 亮

男性20歳
合否 : ×
評価 : 自著要約C/書評C/総合D
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 残念ながら、これは卒業論文(修士論文でもいいが)の要約のようにしか見えなかった。サブカル的感覚をアカデミズムで無目的に再解釈し権威化する議論。リア充が三〇〇年前にいた、ニーチェも非モテだった、とかいうタイプの議論は、大学関係者のネタとしてはおもしろいがそれ以上のものではない。挑戦者は、そのような議論を提出することで「いま」の読者になにを届けたいのか、その目的をもう少し考えるべきだった。
『「非リア充」のフランス文学』    学谷 亮

 本書は、ある意味でひとつの精神史を描こうとするものである。だが、それは不完全な精神史である。かつて、フランスの批評家ジョルジュ・プーレは、『人間的時間の研究』と題された合計四巻に及ぶ書物の中で、十六世紀から現代に至るまでのフランス文学を、「時間と空間」という観点から見事に再構築してみせた。それはまさしく「時間の精神史」とも呼べるものであった。彼の方法論は、「テーマ批評」と呼ばれ、批評の枠組みの一大潮流となった。本書はテーマ批評を目指すものではないが、方法論的にはプーレのそれと共通しているところがある。だが、本書で論じられるべき対象は「時間」ではない。それは、「非リア充」である。
 第一章で詳しく述べるが、「リア充」「非リア充」という言葉の歴史はごく浅く、おそらくわずか数年しか経過していない。そのような歴史の浅い概念について、プーレさながらの「精神史」を構築することなど、到底不可能ではないのか、との批判が寄せられることは考えられる。
 確かにそれはもっともな批判である。しかし、「リア充」「非リア充」という言葉が生まれる以前から、実質的にはそれらに当たるような種の人間は存在していたのではないか、というのが本書の問題意識である。次に、この問題を探る手がかりとしてわれわれが分析対象とするのは、文学作品である。当然ながら、古い時代の人間が有していた精神について探求する際、使用できる材料は限られてくる。その中でも、文学作品は最も扱いやすく、考察の対象として適したものである。だが、文学作品以外にも、絵画・音楽などの他の芸術ジャンル、および公開を前提としていない民衆の文書などにも人間の精神が表れる場合があるし、文学作品に絞ったところでそれらをくまなく調査することは決して容易ではない。少なくとも現段階で筆者に与えられた時間では到底不可能である。冒頭に「不完全な」と記したのはこのためである。
 本書では、第一章において「リア充」「非リア充」がどのようなものであるかを、現代的な視点から整理する。その上で、三つの文学作品を「非リア充」という観点から分析していく。第二章ではディドロの『運命論者ジャックとその主人』、第三章ではリラダンの『未来のイヴ』、第四章ではサルトルの『嘔吐』がそれぞれ扱われる。そうした分析の結果、「リア充」「非リア充」をめぐる精神史の一側面が浮かび上がったとき、本書の試みは成功したといえるだろう。

一 現代のリア充の実態

 「リア充」という言葉は、「2ちゃんねる」の掲示板の一つである、「大学生活板」から生まれた。2ちゃんねるが数多くのインターネットスラングを生み出していることは周知の通りだが、「リア充」もそのようなネットスラングの一つである。この「大学生活板」は、文字通り現役の大学生を主なユーザーとしている。しかし、ここに書き込む大学生たちは、一般的な大学生のイメージとはほど遠い生活を送っていることが多い。一般に考えられているような大学生の生活をイメージして欲しい。授業に出る傍ら、サークル活動や飲み会に精を出し、長期休みにはバイトで貯めた金で旅行。もちろん恋愛もする。そうこうするうちに就職活動が始まり、めでたく卒業、社会人へ…。このようなタイプの人間が「リア充」である。一方、「大学生活板」のユーザーはこれらと対極にあると言ってよい。学内では孤立気味であり、サークルなどにも参加しないことが多い。しだいに他者との関わりに嫌気が差し、家の中でゲームやテレビ、インターネットに興じるようになる…。彼らは「リア充」の対概念として、「非リア充」と呼ばれている。
そもそも、「リア充」という言葉は「リアル(現実の生活)が充実している人」の略であり、ゲーム・アニメ・インターネットといった、ヴァーチャルなものに依存しない(全く依存しないわけではないが)という意味をもつ。したがって、その対概念である「非リア充」は、ヴァーチャルなものに依存しきって生きていることになる。そのため、これらは現代的な概念であるとされている(実際に、この語が広まったのもここ数年の間である)。だが、実際に「リア充」「非リア充」という区分けがなされるときには、「ヴァーチャルなものへの依存度云々」のみが基準となっているのではなく、そこからくる生活環境および対人関係のあり方も大きな問題点となっている。すると、「リア充」や「非リア充」は二十一世紀特有の人間像ではなく、それ以前の時代にも存在したのではないかというのが筆者の問題意識である。次章以降は、具体的な文学作品を分析しながら、これまでの時代に見られた「非リア充」像について考えていく。

二 すべては天上の言うとおり〜ディドロ『運命論者ジャックとその主人』〜

 フランス十八世紀を代表する思想家の一人が、ドニ・ディドロである。彼は『百科全書』の編纂に携わり、フランス啓蒙思想の中心的人物として知られているが、作家としても優れた才能を発揮した。そんな彼が最晩年に書いた小説が、本章で取り上げる『運命論者ジャックとその主人』である。この小説は、青年ジャックとその主人との対話を中心に構成されており、「ジャックが自らの恋物語を主人に聞かせる」というのが、この小説の一応の主題である。だが、この小説は若者の恋愛話が淡々と進行するような類のものではない。物語の内容はもちろん、その形式上の特異さからも、この小説が「怪物的」であることがわかる。さらに、ここに十八世紀的な「非リア充」が描かれていると考えることができる。
 まず、作品のタイトルにもある「運命論者」という言葉について考えてみよう。ジャックは、「すべては天上に書かれている」という信念をもつ若者である。彼は、身の回りで起こるありとあらゆることが、あらかじめ天上に書き込まれていると考える。それは、彼自身の力では変えることができず、また変えるつもりもないのである。このように、ジャックは何か大きな論理を中心にして世界が回っていると信じており、これはある意味でヴァーチャルなものへの依拠であると考えられる。つまり、ジャックは「天上」を仮想的に設定することにより、あらゆる出来事の根拠をそこに求めているのだ。
 さらに、この小説の特徴的な点を一つ指摘しておきたい。それは、作者であるディドロがストーリーの随所に登場する点である。ジャックと主人との対話に突然割り込んでくるディドロは、非常に巧みなしかたで話の展開を操作する。ジャックと主人が馬に乗って移動しながら対話していたそのとき、後ろから盗賊の一団と思われる男たちが襲いかかってくる。そのとき、文中に登場したディドロは以下のように語る。

  あなたはまた、この小さな軍団がジャックと主人に襲いかかるや、血みどろの闘いが始まり、棍棒がふりまわされ、鉄砲玉が飛び交うことになるのだ、とお考えになるかもしれませんが、そうなるかいなかはすべて私の一存にかかっているのです。しかし、そんなことでは歴史の真実ともジャックの恋の物語ともおさらばです。
 (ドニ・ディドロ、王寺賢太・田口卓臣訳『運命論者ジャックとその主人』、白水社、二〇〇六年、十八ページ)

この一節から、実は作者であるディドロ自身が「天上」として機能していることがわかる。
普通ならばジャックと盗賊団の合戦が始まってもよいようなところだが、ディドロは盗賊団の存在を消去し、ジャックと主人の対話を続けさせる。
 その一方、この物語は脱線に脱線を重ね、ジャック自身の恋物語が語られるのはほとんど終盤になってからである。しかも、やっと盛り上がってきたところで彼の恋物語は打ち切られてしまう。ディドロはこう言う。

  ここで私もおしまいにします。この二人の人物について知っていることはすべてあなたにお話ししましたから。―でもジャックの恋物語は?―ジャックは何度も言っていたじゃありませんか。彼の話は終わらないって天上に書かれているんだ、と。
 (三三二ページ)
このように、ディドロは非常に鮮やかに読者を翻弄する。彼は「天上」というヴァーチャルなものを設定し、また自らが密かに「天上」となって、ジャックや読者を惑わせる。それと同時に、彼はジャックと主人に「恋物語」を語らせると言っておきながら、実際には「恋物語」はほとんど語られないまま終わり、「あの物語をジャックが放り出したところまでもどって、あなたの想像のおもむくままに続けてみてはどうでしょう。」(三三三ページ)と、読者に委ねるかたちで物語は締めくくられる。そこから、ディドロのある強い思いを読み取ることができないだろうか。それはこの物語から、中心的主題である(と一応されている)「恋愛」をいわば宙に浮かせることにより、通俗的な恋愛話からの差別化を計っていることである。この機能を担っているのが、ジャックの生きる世界内におけるすべてを合理化する「天上」である。「すべては天上に書かれている」の一言で、当初語られる予定だった恋物語は先延ばしにされ、最終的には判断を読者に一任させるのだ。
 以上のことから、『運命論者ジャックとその主人』においては、ヴァーチャルなものへの依拠、および通俗的な恋愛話を回避しようとする傾向が見られ、これは現代の「非リア充」の傾向に通じるものがある。この物語は、十八世紀フランスにおける「非リア充像」のひとつのかたちを示すものではないだろうか。

 

三 人形にみる理想の女性像〜リラダン『未来のイヴ』〜

 ヴィリエ・ド・リラダンの小説『未来のイヴ』は、史上初の「アンドロイド小説」として名高い。また、現代サブカルチャーとの関連性も様々なところで指摘されており、特にアニメ映画『イノセンス』(押井守監督、二〇〇四年)に影響を与えたことはよく知られている。この小説にも、「非リア充」に関連する問題が含まれている。それは、この物語の主役であるエワルド卿およびエディソンの発言から読み取ることができる。  エワルドは、アリシヤ・クラリーという二十歳そこそこの女に恋をしていた。彼女はまさにヴィーナスのような容姿をもつ、絶世の美女であった。だが、そんな外見とは裏腹に、彼女は常に金のことしか頭にない拝金主義者であり、恋愛に関しても財産や地位にしか目を向けない、「俗物の女神」であった。エワルドはこれに耐えることができず、彼女の外見はそのままにして、アリシヤの愚劣な魂だけを抜き取ることができればどれほど素晴らしいかと常々思っていたのだ。
 そんな期待に応えたのが、電気学者のエディソンである。彼は、あることをきっかけに人造人間の開発を進めていた。彼は、エワルドの話を聞き、開発途中であったその人造人間ハダリーによって、自分にとっての理想の女性を得たいというエワルドの願いを叶えることになったのである。
 この物語には、現代の「非リア充」に通じる記述がいくつも見られる。まず、エワルドに注目したい。前述したように、彼は現実の女性(=アリシヤ)の俗物根性や拝金主義に嫌気がさし、女性からそのような魂が取り除かれることを望んだ。つまり、彼は「完璧な女性」を望んだのである。だが、それは誰にとっても完璧な女性ではない。エディソンの言葉を引用すると「あなたがあの女の中で愛している存在、そしてあなたにとって、ただそれだけが実在であるものは、その通りすがりの女性に現われているものではなく、あなたの願望の実在なのです。」(ヴィリエ・ド・リラダン、齋藤磯雄訳『未来のイヴ』、創元社、一九九六年、表記を現代表記に改め、また訳文も適宜変更した)というように、まさしく彼の願望のみを実在させた女性が「完璧な女性」なのである。こうした点に、現在「ニ次元萌え」と呼ばれているような現象との共通性を見出すことはできないだろうか。現在流通しているアニメやゲームのヒロインは、外見、性格、声の質に至るまで、ある一定の基準をもとに考えられた上で作られているはずである。その基準とは、それらを消費する側であるオタクの「願望」に他ならない。『未来のイヴ』の場合は、エワルドの願望のみをもとにして、ある意味オーダー・メイド的に女性が作られたのに対し、現代の場合は消費者の欲望の最大公約数をもとにして女性キャラクターが作られている。だが、その根底にあるものは共通している。それは、彼らにとっての「理想の女性」を作ることに他ならないのだ。
 また、エディソンが人造人間の開発に至った経緯も注目に値する。彼の竹馬の友であったエドワード・アンダーソンは、妻子ある裕福な事業家であったが、劇場で、エヴリン・ハバル(齋藤磯雄によると、ヘブライ語をもじって、「すべて空なり」という意味)という踊り子に恋をする。アンダーソンはエヴリンに夢中になり、それが原因で夫人との仲が悪くなってしまう。生活が不安定になったアンダーソンは相次ぐ失敗で財産を失ってしまった。すると、これまで彼に愛情を示していたエヴリンはあっさりと彼を見限ってしまったのだ。彼は絶望のあまりこの世を去ってしまった。エワルドの場合と似たような体験であるが、このような背景から、「人造人間」は生まれたのだ。
 そしてエディソンはこの逸話を語る際、「人工的」という言葉を重視している。彼曰く、「彼女たちがおのれの犠牲者に及ぼす不吉なそして病的な影響力は、精神上及び肉体上の、人工的手段の量と正比例する」(二四〇ページ)、つまり男たちを巧みに誘惑する力をもつ女は、何かしら「人口的なもの」を持っているのだということである。また、人造人間の製作においては「外面」が重視される。実際、彼が重点を置いた四つの点として、「生命系統」「造形的媒体」「肉」「皮膚」が挙げられており、外面に重点が置かれていることがわかるだろう。
 このように、『未来のイヴ』においては、現実の女性が抱きうる俗物的観念が徹底して排除され、どこか人工的な感じを帯びつつも完璧な容姿を備えた女性―現代的に言えば、「二次元的」な女性―に憧れる男が描かれる。エワルドは、身も心もすっかりアリシアになったはずのハダリーから「わたくし、ハダリーでございます。」と言われたことでひどく打ちのめされるが、最終的には彼女を溺愛し、連れて帰ることになる。しかし、結局彼は火災でハダリーを失ってしまう。彼から電報でその旨を知らされたときのエディソンの描写でこの物語は終わるが、この数行の描写から、作者リラダンの思いが読み取れる。それは、人造美女の儚さであり、それを溺愛する男たちの空しさである。家財道具をすべて没収され、貧困と孤独に喘ぎながら床に這い蹲ってこの作品を描いたリラダンこそ、「ハダリー」(ペルシア語で「理想」の意味)を夢見た十九世紀的「非リア充」であったとも言えよう。

四 「非リア充」的孤独スパイラル〜サルトル『嘔吐』〜

 『嘔吐』は、文学者としてのサルトルの代表作であるとともに、日本において、サルトルの代名詞的役割を果たす作品と言ってもよいだろう。これまで、『嘔吐』というととかく「マロニエの根」の場面だけが強調されてきたことが多い。主人公のアントワーヌ・ロカンタンは、公園でマロニエの根を目にし、強烈な吐き気に襲われるが、それは実存に直面して起こる吐き気であるという、有名な場面である。このことから、この小説は物語の形式を取りながら、実存主義の概念を見事に表して見せた、いわば実存主義のバイブルとして扱われている。
 しかし、この小説は単なる「実存主義文学」ではない。引き篭もりやニートといった現代の社会問題の観点からの読解がすでに合田正人によって行われている(『サルトル「むかつき」ニートという冒険』、みすず書房、二〇〇六年)。本書では、主人公ロカンタンが一種の『非リア充』として描かれているのではないかという問題意識を出発点とし、この小説を分析していく。
ロカンタンは孤独である。と同時に、冷めている。彼はいつもひとりでいる。図書館で論文を書くときも、カフェでサンドイッチを食べるときもひとりである。カフェで騒いでいる、「実存するには幾人か集まらなければならない」(サルトル。白井浩司訳『嘔吐』、みすず書房、改訳版一九九四年、十三ページ)いわば「リア充」たちにも、ロカンタンは「少しうるさいけれども、気にならない断続的な騒がしさ」(十三ページ)と余裕を見せる。
 彼は意外にも色事を拒まない。だが、それはいたって冷めた関係のもとに行われる。ロカンタンの相手となる女は「一日にひとりの男が必要」であり、ロカンタンにとっては憂鬱から解放されるための、「おあいこ」の色事である。そこに通俗的な意味での純愛は存在しない。互いが互いの欲望を満たしあうためだけの色事。ロカンタンからすれば、女であれば誰でもよかった。つまり、彼にとって、女は交換可能な仮想存在であったのだ。
だが、女のなかでも、かつての恋人であるアニーだけは特別な存在だった。彼はアニーと約五年ぶりに再会する。だが、そこには五年ぶりに再会した恋人たちに見られるような高揚感はない。ロカンタンは「君に会えてうれしい」と口にしたが、すぐにそのことを後悔した。アニーからしてみればとてもそんな状況ではなく、ロカンタンの発言は「その場にそぐわない」ものでしかなかった。
 そして、ロカンタンはここで自らの孤独を再確認することになる。アニーはロカンタンの様子が変わらないことを確認して満足げな表情を浮かべる。その理由はこうだ。

「『あなたは里程標なのよ』」(同、二二四ページ)

「街道の傍に立っている里程標」。これがロカンタンだった。しかも、アニーはロカンタンが必要なのではない。「あたしに必要なのは、あなたがいて変わらないということ。つまりあなたは。パリ郊外のどこかに蔵ってある白金のあのメートル原器のようなものよ。いったいだれが、そんなものを見たいと思うかしら」(二二五ページ)。アニーにとっては、ロカンタンがかつてのロカンタンのまま「お馬鹿さん」でいるという事実、ただそれだけでよかったのだ。そう、彼女にとって、アントワーヌ・ロカンタンは「モノ」に過ぎなかったのだ。
 ロカンタンは、現在彼が考えていること(吐き気、恐怖、実存…)を語りたいと思うが、とても自分のことを語りだせる状況ではなかった。しかし、彼はアニーの発言に自分を重ね合わせる。実はアニーが自分と同じことを考えているのではないかと思ったのだ。

  「私はアニーに私の冒険を語り、実存についてしゃべる―恐らくいくらか長すぎるくらいに。アニーは眼を大きく見開き、眉を吊りあげて熱心に聞く。」(二四七ページ)

だが、ロカンタンの当ては大きく外れる。「それじゃあなたは、ちっともあたしと同じことを考えてはいなくてよ。」というアニーの言葉が響く。ロカンタンの孤独は解消されないまま、もしかするとアニーによって一層増幅されて返ってきた。アニーがわざわざロカンタンと再会したのも、しょせん彼を里程標として使うためなのだ。
   「『あなたがちっとも変わらないのはうれしいわ。もしあなたが移動させられ、塗り変えられ、別の街道に打込まれていたら、あたしの進むべき方向を決めるものがもうなんにもないでしょうよ。あなたはあたしにとって不可欠のもの。あたしは変るけれど、あなたは変化がないことになっている。あたしの変化は、あなたとの関係によって計るのよ。』」(二三五ページ)

このように、ロカンタンは孤独である。彼は、自分が変化することを許されない。他者が変化するにあたってのメルクマール(指標)としての価値しか期待されていないのである。メルクマールは常に同じ場所にいなければいけない。まさしくモノ…。
 そういえば、ロカンタンはなぜ図書館に通いつめていたのであろうか?それは、ただ一つの仕事を完成させるためであった。ロルボンという人物に関する論文である。なぜ彼はロルボンという一人の人物に執着するのか。ごく単純な理由として、ロカンタンの目にはロルボンが「魅力的な人間として」映ったということがあるだろう。しかし、ロカンタンはいつしかロルボンを絶対的な存在としてとらえるようになる。「私がいまここにいるのは彼のためだ、この変なやつのためだ。」。そもそも、彼がブーヴィルという町に住み着いた理由も、そこにロルボンの滞仏時の資料が豊富に揃っているからであった。だが、ロルボンという人物はロカンタンにとって単なる研究対象や憧れの人物ではなかった。彼にとって、ロルボンは二つの意味を持っている。
 まず、ロカンタンがロルボンに関して行おうと思っている仕事、つまり日々図書館で調べものをして執筆している論文は、実はフィクションの構築作業に他ならないのである。ロルボンは歴史上、様々な偉業を成し遂げたと言われている。しかし、未だかつてそれらは証明されていない。ロカンタンの野望は、それらを証明することにある。図書館に眠る膨大な資料をくまなく調査しているのもすべてはそのためである。
 では、なぜ彼の仕事をフィクションであると言えるのか。それは、この仕事が、ロルボンが行った個々の業績を、ロカンタンが自分のやり方に従ってまとめあげるというものだからである。

  のろのろ、だらだらと不機嫌そうに個々の事実が、それに私が与えようと思っている厳密な配列に適応する。だが、この配列は依然として事実とは別個のものなのだ。私には自分がまったく空想的な仕事をしているという感じがする。(二五ページ)

つまり、ここでロカンタンが行おうとしている仕事は、ロルボンが残した業績を甦らせるものではない。あくまでもロカンタンの立場からロルボンを再構築する作業である。そこには、事実とは異なった「ロルボン伝」ができあがることだろう。まさしくフィクションである。  では、なぜロカンタンはフィクションでしかないことを承知の上で「ロルボン伝」を書くのか。それは、今のロカンタンにとって、ロルボンこそが自分であるからである。

  四頁書いた。それから長い幸福の瞬間。〈歴史〉の価値について熟考しすぎないこと。それは歴史に嫌気がさす危険を冒すことになる。現在では、ド・ロルボン氏が私の存在を正当化する唯一のものであることを忘れないこと。(一一六ページ)

つまり、彼はロルボンを通してしか生きることができないのである。毎日毎日、少しずつ論文を書くことにより、彼はロルボンに近づく。だが、結局ロカンタンは仕事を終えることなく、ブーヴィルの町を離れることになった。自らの存在をロルボンによって正当化しようとする試みは、失敗に終わったのである。こうして、ロカンタンには孤独だけが残った。
 これらのことから、ロカンタンはブーヴィルの町でなんら成し遂げないままで物語が終わる。彼が常に〈吐き気〉を感じながら生きてきたのは、実存の問題だけでなく、「非リア充的な対人関係」の影響があったのではないか。彼は、ロルボンという一人の人物について、壮大なフィクション(つまりロルボンと自己を同化させるヴァーチャルな空間)を作り上げることで、どうにかして自らの存在を正当化しようと試みたが、それがかなうことはなかった。また、一見リア充的に思える性交渉も、何ら中身のない、欲望充足のためだけのものであったし、彼にとって「唯一の女性」とでも言うべきアニーからも、彼がただの「モノ」に過ぎないことを聞かされてしまった。彼が変化することは許されず、他者の変化をただ指をくわえて微動だにせず見守るだけの存在…。こうした点から、この小説が「非リア充」に関わる問題を描くものであると指摘することができる。その意味では、ロカンタンは二十世紀における「非リア充」の典型ではなかったか。

五 結論

 本書では、フランス文学史の中でも特に有名な三つの物語を取り上げて論じた。すでにお気づきだとは思うが、意図的に十八、十九、二十の各世紀から一作品ずつ選んだ。それぞれの時代に、それぞれ特徴をもった「非リア充」がいたことがわかる。すべてを合理的に処理しようする啓蒙の時代にあって、「天上」というヴァーチャルなものを信じたジャック。ブルジョワ的拝金主義に異議を唱え、「ハダリー」(理想)を追及しつつもその儚さを身をもって示したエワルド卿。実存の吐き気と戦いながら必死に自己の存在を正当化しようとするも、達成されないまま町を出たロカンタン。それぞれ背景も悩みも異なる彼らを、「非リア充」という言葉で括ることが許されるかどうかはわからない。だが、彼らの内に、現代の「非リア充」がもつ思いと共通するものがあったことは確かである。その意味では、本書は「非リア充の精神史」の一端を描き出したことになる。そして、「非リア充」が二十一世紀に特有の「世紀病」ではもはやないことが示されたことになる。

書評
 学谷亮の『「非リア充」のフランス文学』は、十八、十九、二十の各世紀から一つずつ選ばれたフランス文学の作品を、「非リア充」という視点から分析するものである。これまでの文芸評論においては、フランス文学がこのようなサブカルチャー的な文脈において批評されることはほとんどなかった。したがって、試み自体は非常に新鮮に感じられた。しかしながら、全体としては多くの問題点を残すものとなった。
 まず、学谷の主張をごく簡単にまとめておく。学谷は「リア充」や「非リア充」といった概念が、決して現代特有のものではないことを強く強調している。学谷が指摘している通り、「リア充」「非リア充」といった言葉は、ここ数年のうちに「2ちゃんねる」を中心にして広まった。当初は、大学生の中での二極化、つまりサークル活動や合コンなどを積極的に行うタイプと、そのようなタイプとは逆にアニメやインターネット、ゲームなどの趣味に没頭するタイプとを分ける言葉であったが、現在は大学生に限らずこのような区分けが適用されている。その中でも特に後者、つまり「非リア充」に焦点を当て、近代〜現代の文学作品に現われた「非リア充」を分析することにより、それが決して現代に特有の現象ではないことを示すのが、最終的にこの本の目指すところであるという。
 次に、この著作が抱えている問題点をいくつかの項目に分けて示す。まず目に付くのが、取り上げられた文学作品の少なさである。結論部において学谷自身が述べているように、学谷は発表年代が異なる三つの作品を取り上げており、これは意図的であるという。学谷の言葉を借りれば、この論考は「非リア充の精神史」を目指すものである。したがって、各時代において、「非リア充」がどのように変化してきたかを見せる必要があり、その点ではこのような形式を取ることは妥当であっただろう。だが、各時代につき、一つの文学作品のみを分析の対象としたことは、大きな失敗であったと言える。というのも、そうすることによって、ここで取り上げられている作品こそが、その時代の「非リア充」を描いた作品の代表であるかのような印象を読者に与えかねないからである。
そうではなく、各時代につき、いくつかの文学作品を個々に分析し、さらにそれらを比較対照するという手法を取り入れれば、各時代の特徴をよりよく浮かび上がらせることができたのではないだろうか。例えば、十八世紀において「非リア充」的な作品として論じられる可能性があるのはルソーである。彼は、晩年に『孤独な散歩者の夢想』という非常に美しいエクリチュールを残している。その中では、彼が人間社会から追放され、孤独のもとに日々を過ごしていたことが、美しい自然描写とともに書き綴られている。学谷は、この著作の第四部をサルトルの『嘔吐』の分析に当てているが、そこで中心的な問題となっていたのは、ロカンタンの抱える孤独であった。したがって、なぜルソーが社会から離れて孤独に生きなければならなくなったのかの分析をこの著作で行うことは、十分この著作の趣旨に合致すると思われる。また、『孤独な散歩者の夢想』よりも先に書かれた彼の自伝である『告白』も非常に興味深い。『告白』においては、ルソーが異常性癖をもっていたことが本人によって文字通り、「告白」されているのだが、このことと彼の「孤独」との関連性について論じることなども必要になるだろう。リア充は「群れる」傾向が強いのに対し、非リア充は「孤独」を抱えていることが多いのは周知の通りであり、「非リア充」の分析にとって、「孤独」の問題は非常に重要なものであるといえる。
他の作品の分析可能性をもう一つ示しておこう。学谷は、第三部においてリラダンの『未来のイヴ』を取り上げているが、この作品を論じる際には、やはりミッシェル・カルージュの奇書(高山宏・森永徹訳『独身者の機械』、ありな書房、一九九一年)を参照することは欠かせないだろう。これは、「独身者」と「機械」という観点から、リラダンはもちろん、レーモン・ルーセル、ジュール・ヴェルヌ、ロートレアモンなどの作品を論じて見せた、非常に刺激的な仕事である。これについてはすでに様々なところで言及されており、カルージュのこの分析を出発点としたと思われるシンポジウム及びその記録もすでに出版されている(巽孝之・荻野アンナ編、『人造美女は可能か?』、慶應義塾大学出版会、二〇〇六年)。もちろん、カルージュの著作を無批判に受け入れることは避けなくてはならない。だが、いっそこれを下敷きにして、そこで分析されている作品を、さらに「非リア充」という視点から読解してみてもよかったのではないだろうか。つまり、独身者という概念と「非リア充」に何らかの関連性を見出すことができたのではないかということである。いや、関連性というよりも、むしろ「独身者=非リア充」なのではあるまいか。学谷は「リア充」と「非リア充」を定義するにあたって、ヴァーチャルなものへの依拠だけではなく、対人関係のあり方にも着目すべきだと述べているが、この点こそ、独身者と非リア充の問題を考える手がかりになるのではないか。異性とどのように接するかは、「非リア充」を考える上でどうしても見過ごすことができない。実際に、学谷が分析対象とした三つの作品においても、『未来のイヴ』と『嘔吐』においてそれはとりわけ強く現われている。『独身者の機械』という偉大な先行研究を有効に活用すれば、この点がさらにはっきりとしたのではないか。
また、学谷は十八世紀の作品から分析を始めたが、それ以前の時代においてはどうだったのかという単純な疑問も浮かんだ。中世から十七世紀までの作品も、「非リア充」という観点から、再度読んでみる必要があるだろう。この点については、学谷の今後の仕事に期待したいと思う。
学谷の論考にはもう一つ問題点がある。それは、「日本」という視点が完全に欠落していることである。言い換えるなら、「リア充」「非リア充」は現代の日本で生じている現象であるのに、なぜ分析する対象がフランスの文学なのかということである。学谷は第一部において「リア充」「非リア充」に関する現在の状況をきちんと読者に説明しており、そのこと自体に問題はないのだが、そこからフランス文学の分析に向かうことについては、いささか首を傾げざるを得ない。これは、筆者のみならず、この本を読んだ誰もが感じ得ることであろう。もちろん、これは学谷自身の専門がフランス文学であることによるものであることは承知の上での批判であるし、それに「リア充」「非リア充」を考える上でフランス文学を考察対象として用いることに問題があるとも思わない。むしろ、「リア充」「非リア充」が日本に固有の現象ではないことを示すには、フランス文学は格好の材料となり得るだろう。だが、フランス文学の分析のみに終始し、日本を見落としたことは完全に学谷の失敗である。前述したような疑問が読者の頭をよぎることは間違いないのだ。やはり、日本文学の作品分析を加えるべきだったであろう。学谷がどの程度日本文学に精通しているかはわからないが、これから丹念に読んでいく必要があるだろう。やはり、「日本という国において」という前提のもとで、「リア充」「非リア充」を探っていくことをこの著作に加える必要がある。
では、日本文学において「非リア充」的なものはなんだろうかと考えたとき、筆者が真っ先に思い浮かんだのは二葉亭四迷の『浮雲』であった。この小説の主人公である内海文三の行動は非常に「非リア充」的なものであるように思える。彼はとある省で官吏として働いており、当時の時代背景からしても彼は一見すると恵まれたエリートのように思えるが、彼は自分が働く役所や出世志向の同僚を見ているうちに空しさがこみ上げてくる。また、下宿先の娘に好意を寄せるが、思いを打ち明けることもできずに悶々とした日々を送る。そうこうするうちに彼は役所をクビになってしまうが、周囲の人間にすべてを打ち明けることもままならず、自室に閉じこもって毎日を過ごすことになる。こうした人間像は、まさしく学谷が取り上げた三つの作品のそれと共通するところがあるのではないか。もちろん、これはあくまでも一つの例に過ぎず、さらに多くの作品を検討する必要がある。日本文学を丹念に読むことが、学谷にとって、今後の大きな課題となることだろう。
また、これは「リア充」「非リア充」が現代特有の現象ではないことを示すという学谷の意図からは少し外れるかもしれないが、現代の文学と「リア充」「非リア充」との関係性を分析することも、ある程度必要だったのではないだろうか。ただ、この点に関しては学谷の中である程度下地が完成していたといえる。というのも、この著作が出版される契機となった、「ゼロアカ道場」という企画の第一回において、学谷はすでに「『リア充』小説論序説〜ライトノベルとケータイ小説における恋愛の構造〜」という短い論考を書いているからである。この論考の趣旨を簡単に要約すると、一般にケータイ小説は「リア充」を、ライトノベルは「非リア充」を主な読者に設定しており、したがって両者は対照的な性格をもつジャンルのエクリチュールであるとされている。しかし、その中にはいくつかの似通った構造を見出すことができるという。さらに学谷は、「ケータイ小説の読者は地方在住者が中心であり、またケータイ小説自体、地方都市を舞台としたものが多い」という本田透の指摘を引用しながら、ケータイ小説が、リア充になりたいと思いつつもなれなかった「非リア充」のための小説であるとの論を展開している。つまり、学谷の主張に従うなら、ケータイ小説も、「非リア充」という視点から分析を加えることができるはずである。ケータイ小説に関しては、それを「文学」の範疇に含めるかどうかという根本的な問題点も含めて今後さらに議論されるべきであり、「非リア充」という着眼点も、ケータイ小説を分析する上でひとつの指標となり得るだろう。学谷自身、そのような問題意識をもっていたにも関わらず、本書において言及されなかったのは少し残念なことであった。
 以上のように、本書は分析対象の少なさおよび偏りといった重大な問題点を抱えている。しかし、一冊の「批評」を書くにあたって、学谷が「非リア充」という、ある意味で挑戦的とも言える新たな読解の枠を提示したことは評価したい。というのも、筆者は「批評」という場こそが、そのような挑戦的な読解を行うことのできる場所であると考えているからである。本書はあくまでも「批評」なのであって、フランス文学に関する学術的な著作とは言えない。本書を「学術論文」であると公言して世に出すことが許されるのかどうかを考えた場合、それはおそらく不可能なことであろう。そもそも、「リア充」や「非リア充」は、あくまでも「2ちゃんねる」を中心としたネットユーザーを中心にして使われているものであり、それらがアカデミズムの場において、作品分析の切り口として認められるのかどうかは甚だ疑問である。それに、常識的には関連性がごく薄いとされる、ディドロ、リラダン、サルトルという三人の作家の作品について同じ場で論じることも非常に難しいだろう。誤解しないでいただきたいのだが、筆者は決してアカデミズムのあり方を批判しているのではない。そうではなく、「批評」という場でしかできないことがあると言いたいのだ。この著作は、まさにその「批評の場でしかできないこと」をやろうと試みたものである。これまで行ってきた批判からもわかるように、その試みはまだ成功したとは言えない。しかし、学谷には「批評にしかできないことがある」ということを忘れずにいてもらいたい。この著作は、多くの課題を残しつつも、アカデミズムの場でフランス文学を専門としている学谷が、それをあえて批評の場に移して論じたことの意味は十分に伝わってくるものであった。
                              (「群像」掲載)