
私が謎に満ちた一人の男の物語をほぼ書き上げた昨年一一月、山形県酒田から一通の手紙が届いた。封を開くと、そこには一二月四日に酒田市希望ホールで開催される「想い出コンサート」のプログラムが入っている。表紙には「酒田の古い賑わいを語り、世界一と謳われたグリーン・ハウスを偲ぶ」というキャッチコピーが印刷されていた。
この催しには参加しなければならない、と思った。「世界一と謳われた映画館グリーン・ハウス」とは、私の書いた物語の重要な舞台だったからだ。
プログラムのここかしこに、物語の主人公・佐藤久一が心血を注いだ、グリーン・ハウスの思い出話が溢れている。このコンサートには、たぶん私が取材した人たちも数多く参加するだろう。私は手帳に「一二月三日〜五日、酒田行き」と書き込んだ。
だが結局、私は行かなかった。直前になって、歯医者の予定やら小さな会合やらをばたばたと決めてしまった。もともと私は「ひっこみ思案」だし「極度の寒さ嫌い」でもあったが、今回私が逡巡し酒田行きを止めた理由はちがった。グリーン・ハウスの思い出話を聞き、取材した人々と再会することで、私の中で物語が完結してしまうのを恐れたのである。
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」——終戦直後から一九九七(平成九)年までの時代を辿るこの物語は、小さな町の映画館とレストランが舞台である。
佐藤久一が酒田につくったグリーン・ハウスは、一九四九(昭和二四)年から一九七六(昭和五一)年まで山形県酒田市で営業を続け、映画評論家・淀川長治が、「世界一」と評した映画館だ。当時はまだ東京や大阪にしかなかった、回転ドアを押して館内に入る。グレーのダブル・ジャケットに黒ズボン、蝶ネクタイ、白手袋で正装した白髪の案内係から、「いらっしゃいませ」とにこやかに迎えられる。真っ白なカバーがかかった座り心地のよい椅子に座ると、やがて「ムーンライト・セレナーデ」が流れてくる。この優美な曲が開映ベルの代わりだ。
二本立ての休憩時間にロビーに出ると、そこには茶器と熱いお湯の入った魔法瓶が常備され、いつでもお茶が飲めるようになっている。久一は清潔であることに徹底的にこだわり、館内のいたるところに生花を飾った。とりわけ酒田の人々の評判になったのが、女性トイレである。その広さ、明るさ、清潔さは、履き物を脱いで使用する人や床に座って弁当を広げる人まで現れたほどだった。「グリーン・ハウスにはおしゃれをして行かないとね」酒田の女性たちはいつもそう囁きあっていた。
一九五二(昭和二七)年の夏になると、映画館前の広場にベンチが置かれ、フランス風の日覆いが並んだ。夜にはそこでニュース、漫画、予告編の映写が行われる。NHKがテレビ放送を開始したのは一九五三(昭和二八)年二月、民間テレビ(日本テレビ)の放送開始は同年八月だから、東京・新橋の駅前広場などの街頭テレビに無数の人が群がった一年前に、グリーン・ハウスは街頭から映像を発信していたことになる。
東北の一地方小都市の映画館でありながら、一九六〇(昭和三五)年六月、「太陽がいっぱい」を東京・日比谷スカラ座と同時ロードショウ公開することに成功する。これは、当時異例中の異例の出来事であり、佐藤久一の経営手腕を示すものとして業界の注目を浴びた。その後もグリーン・ハウスでは、しばしば話題の作品が東京の劇場と同時ロードショウ公開され、そのことは酒田市民の自慢の種となっていった。
一九六二(昭和三七)年には、定員一〇名のミニ映画館「シネサロン」が新設され、映画好きにはたまらない厳選された名画を観ることができた。さらに二階客席の左右に「新特別室」「御家族室」がつくられる。これらの個室からはガラス越しにスクリーンを眺めることができ、自宅の居間にいるような雰囲気で、食事をしたりビールを飲んだりしながら映画を楽しむことができた。
グリーン・ハウスは、今日のシネマ・コンプレックスの魁的な存在といえるだろう。すべてが独創的で、支配人・佐藤久一の先見性と親愛感に満ちていた。このような映画館は、古今東西、世界中どこを探しても見つからないのではないか。
佐藤久一は一九六四(昭和三九)年、突如映画館経営を辞し、三年間の東京暮らしを経て、一九六七(昭和四二)年夏、再び酒田に戻りフランス料理店の支配人に転じる。
東京では一九六四年の東京五輪開催と前後して、ホテルやフランス料理店がつぎつぎと開業していた。しかし、本格的なフランス料理をつくれるコックは、東京にもまだ数えるほどしかおらず、フランス料理はまだまだふつうの日本人が楽しむ料理とはいえなかった。そんな時代に、久一は大胆にも、人口わずか一〇万の地方都市・酒田で「レストラン欅」を開業したのである。
支配人・佐藤久一はシェフと二人三脚で料理の研究を続けていたが、そんな折、フランス料理研究家の

静雄と知り合い、さらにフランス人シェフのポール・ボキューズの指導を受けたのだが、この出会いが久一らの目を開かせることになる。ボキューズから学んだ技術に加えて、フランス語の分厚い料理書に首っ引きで取り組み、さらに庄内のおばあさんたちから聞きだした昔ながらの郷土料理のつくり方をヒントにした。そして、庄内ならではの新鮮な魚介を大胆に生かした、「フランス郷土料理」という新しいジャンルを創造していったのである。「がさ海老のマリニエール」、「ハタハタの洋風田楽」などは、今に伝わる名物メニューとなっている。
レストラン欅に次いで久一が支配人となった「ル・ポットフー」には、東京、大阪をはじめ全国から、評判を聞きつけた食通たちがやってきた。開高健、丸谷才一、山口瞳、森須滋郎をはじめ多くの文化人たちが、ル・ポットフーの料理とサービスの見事さをエッセイに残した。酒田出身の写真家・土門拳もこの店をこよなく愛した一人である。
久一は、彼らをはじめとする客の期待に応えようとした。「レストランの仕事とは、主役であるお客のために精魂を込めることであり、おいしい時間、楽しい時間を創造することだ」という信念のもと、庄内の最高の素材を仕入れることに情熱を傾けたのである。
しかし、ル・ポットフーの料理がいかに評判をとろうとも、経営はどんどん悪化していった。経営の屋台骨を揺るがしても、久一は、最高の海の幸、山の幸を求めることにこだわり続けたのである。
私にとって本書『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』を著わすことは、いくつもの「なぜ」をめぐる旅であった。
なぜ、久一はグリーン・ハウスを手放したのか。
なぜ、グリーン・ハウスは今日存在しないのか。
なぜ、久一はル・ポットフーを追われたのか……。
佐藤久一が亡くなってから、すでに一〇年の歳月が流れたが、佐藤久一の業績を正しく評価する時が今、訪れようとしているという気がしてならない。そして、その時を迎えたときにこそ、私の物語は完結するはずなのだ。
(おかだ・よしろう 広告ジャーナリスト)