
講談社現代新書から『遠山金四郎』を刊行した。偶像先行の感がある“遠山の金さん”こと遠山金四郎(のち左衛門尉(さえもんのじょう))景元について、現存する史料から実像を描き出した。入れ墨の伝聞や御白洲での裁判などの他、これまで知られてこなかった文化人との交流や死去前後の状況についても触れている。
さて、“金さん”の屋敷は当時どこにあったのか。答えは芝愛宕下、現在の東京都港区、JR新橋駅から南西に少し行ったあたりである。江戸時代の旗本は、江戸に集住していた。遠山家も同様で、芝愛宕下の一角に幕府から屋敷が与えられたのである。
となると、“金さん”の遊び場は、この屋敷の周辺であったかもしれない。今は東京タワーが最も目立つ地域であるが、江戸時代に将軍家菩提寺の芝増上寺が建てられ、海側の浜御殿(現浜離宮)はいわば将軍家専用保養施設であった。
芝神明社や愛宕神社も遠山家屋敷に近く、このあたりは非常に賑わっていたようである。十九世紀前半の江戸の様子を記した寺門静軒「江戸繁昌記」によると、芝神明社は「南郭の一繁昌社」、江戸城の南部で最も栄えたところの一つであった。社を取り囲むように芝居小屋・見世物小屋や講釈・落語の演芸場がつくられていたという。
愛宕神社は愛宕山の山上に祀られており、見晴らしの良い場所として著名であった。上野忍岡の山、築地本願寺の屋根、本所五百羅漢や深川富岡八幡宮三十三間堂の建物、隅田川と利根川、さらに筑波山も遠望できた(「江戸繁昌記」)。茶店が軒を列ね、「尤(もっと)も美景の地」(「江戸名所図会」)とされる愛宕山周辺は多くの人々が行き交っていた。“金さん”も若き頃、また歳を重ねてから、こうしたあたりを回っていたのではないだろうか。
また、遠山家は本所にも屋敷を持っていた。現墨田区菊川、都営地下鉄菊川駅前の地にあたる。通常の居住空間である本屋敷(上屋敷)は芝愛宕下で、本所の方は別邸(下屋敷)と位置づけられる。町奉行は激務の役職であったが、“金さん”はその疲れを癒すかのように、暇を見ては本所の屋敷を訪れている。文人墨客が好んだ隅田川も至近距離である。
しかし、安政二年(一八五五)二月、隠居の身であった“金さん”は、この本所で倒れた。数年前から中風症を患っており、その影響があったのかもしれない。芝愛宕下に戻った数日後、家族に見守られながら、六十三歳の生涯を閉じた。
遠山家屋敷の次は町奉行所。“金さん”が町奉行であったことはよく知られているが、およそ十年つとめたことや、その間は町奉行所内で寝泊まりしていたことは、初耳の人も多いかもしれない。町奉行は江戸の都市行政や治安・裁判などを担う部署の長官で、定員は二名であった。北町奉行と南町奉行で、それぞれの町奉行所に詰めていた。
その二つの町奉行所はどこに置かれていたのか。何度か移転を繰り返したが、北町奉行所は呉服橋門内、南町奉行所は数寄屋橋門内で落ち着いた。JR東京駅八重洲口を出たところに北町奉行所、隣駅であるJR有楽町駅のすぐ南側に南町奉行所が位置していた。
では、“金さん”は南北どちらの町奉行であったかというと、両方が正解である。北町奉行を約三年間つとめた後、大目付という役職に移り、のちに南町奉行を約七年間つとめている。町奉行に二度就任するケースは珍しく、しかも“金さん”がその初例であった。
時代劇に登場する“金さん”は北町奉行である。老中水野忠邦が主導した天保改革の時代、“妖怪”と恐れられた鳥居耀蔵(ようぞう)が南町奉行を担当していた。天保改革とは、一言でいえば幕府財政の緊縮政策で、それを進める水野とその腹心鳥居に対し、“金さん”は江戸を守るために反論するということがあった。そこから“金さん”は庶民の味方、“妖怪”は敵という構図が描かれるようになったわけである。
この北町奉行時代、“金さん”は家族と家臣の一部を引き連れて、芝愛宕下の屋敷から呉服橋門内の北町奉行所へ移り住んだ。町奉行就任期間の限定移住であり、町奉行所の奥向(江戸城の奥向を“大奥”という)で起居していたのである。
江戸城外堀は戦後に埋め立てられたが、呉服橋はそれまで外堀に架けられていた橋の一つで、渡ったところに設置された門内に北町奉行所があった。呉服橋の反対側はかつて呉服町と呼ばれていたが、呉服御用達商の屋敷があったことが町名の由来となっている。
北町奉行就任から三年後、“金さん”は大目付への転任が命じられた。大目付には町奉行のような専用の役所(役屋敷)がなく、再び芝愛宕下の自邸に戻り、そこから江戸城へ登城(今でいえば通勤)した。
ところが、わずか二年後、今度は南町奉行に任じられた。鳥居はすでに失脚し、後任の跡部良弼(水野忠邦実弟)が別の役職に異動し、ポストが空いたのである。“金さん”は将軍家慶などの信任が厚く、江戸の行政・司法を担う適任者として指名されたと見られる。
それに伴い、今度は数寄屋橋門内にあった南町奉行所へ引っ越している。数寄屋坊主の屋敷があったことに因(ちな)む数寄屋町(現銀座五丁目)があり、そこに架橋された数寄屋橋を通って、外堀を渡った門の内側に南町奉行所が置かれていたのである。
ここで江戸切絵図を開いてみよう。切絵図は町割りが詳細に記された絵図で、当時の大名・旗本の屋敷や寺院・神社、道路や橋・河川などの名称・位置が判明する。その中に大名小路と呼ばれる一角がある。現在の丸の内・有楽町あたりで、北東に「北町御奉行御役屋敷」、南東に「南町御奉行御役屋敷」という文字が見え、嘉永年間の切絵図の場合は後者に「遠山左衛門尉」と記されている。たしかに“金さん”はここにいたのである。
さらに目を凝らして見てみると、南北の町奉行所両方ともに、脇に四角で囲った部分があり、いずれも「コシカケ」と記されていることがわかる。これは「腰掛け」、町奉行所へ来た訴訟人(当時は公事人(くじにん)という)の控え場所を指している。
嘉永五年(一八五二)三月に“金さん”は南町奉行を辞任するが、その三ヵ月前、嘉永四年十二月に火事が発生した。火元は鳥取藩池田家の屋敷で、目と鼻の先にあった南町奉行所も風に煽られて類焼してしまった。この時にその「腰掛け」のみが焼け残ったという。
困ったのは“金さん”、役所が焼失しては役務が果たせない。必要な書類・荷物は類焼する前に運び出したようで、向かった先は芝愛宕下、自らの屋敷であった。そして、そのまま自邸を仮役所とし、三ヵ月後、南町奉行所の再建を待って辞任・隠居したのである。名奉行とうたわれた“金さん”の、意外な最後の現役生活であった。
最後に菩提寺の話。“金さん”を含めた遠山家の墓所は本妙寺という法華宗寺院にある。現在は巣鴨(豊島区)にあり、心静かに詣でることができる。しかし、同寺は明治末年まで本郷菊坂町(現文京区)にあった。今は“本妙寺坂”という坂道に名残りがあるが、再び江戸切絵図を開くと、たしかに本郷に存在していたことがわかる。
さらに明治四十年(一九〇七)発行の「東京名所図会」を見ると、本郷時代の本妙寺の様子をうかがい知ることができる。遠山家の他に大名久世家や囲碁本因坊(ほんいんぼう)家の歴代などの墓が紹介され、門と門内の写真も掲載されている。明治三十一年「東京案内記」によれば、門を入ると境内は非常に清浄で閑静なところであるという。こうしたところに“金さん”は埋葬されていたのである。
芝愛宕下、本所菊川、八重洲口、有楽町、本郷本妙寺坂、そして巣鴨の本妙寺。“金さん”ゆかりの地を巡ってみてはどうか。桜吹雪に因んで桜の季節という手もあるが、梅の花咲く頃が良いかもしれない。幕末の随筆「守貞謾稿(もりさだまんこう)」によると、江戸の人々は“意気”を好み、それを花に比すると“梅”、特に“白梅”であると明記されているからである。
(おかざき・ひろのり 大倉精神文化研究所客員研究員)