
だれにも干渉されない密室で我田引水の講義をしているうちに、「後生(こうせい)、畏るべし」という戒めを忘れて、〈汝、何を知るや〉という姿勢が身についてしまう。そうならないためには、〈我、何を知るや Que sais‐je?(クセジュ)―〉と絶えず自問しつづけなければならない。
〈汝、何を知るや〉という姿勢が慢性化すると、学生だけでなく研究対象までをなめてかかり、ほかの注釈書もみんなそう書いているのだからと、定説と称するあやしげな俗説を無批判に踏襲したり、大胆すぎる憶測を「である」と断定して公言するようになる。注釈書を書けば、読者をなめてかかる。全用例に現代語訳を添えて親切を売り物にした『古語辞典』なども同類である。
「あまのはら」と言っただけで、即座に、「ふりさけ見れば春日(かすが)なる」と続ける人はどこにでもいるが、それは、『百人一首』の読みかたであって、平安前期の和歌は清濁を書き分けない仮名文字だけで書かれていたことを忘れてはならない。この場合も、第三句「かすかなる」は、まず、「微かなる」、すなわち、〈もはや、はっきりとはイメージが浮かばなくなっている〉という意味を喚起したうえで第四句「みかさのやまに」を読み、その段階で「春日なる」が「微かなる」に重なるように組み立てられている。このように、当時の和歌は、仮名文字の連鎖を目で追いながら読み解くように構成されているが、専門家とみなされている人たちのほとんどは、平安前期の仮名文字と現行の平仮名との特性の違いを認識しないまま、旧態依然の解釈を受け売りしつづけている。
紀貫之は、『土左日記』(一月廿日)に、目前の情景と二重写しにしてこの和歌を引用しているが、一言の断りもなしに、初句の「あまのはら」を「あをうなはら」に置き換えており、注釈書は、その理由を、つぎのように説明している。任意に三種を引用する。
a.土佐日記のこの場面において、海に面して月を詠ずる情景にふさわしく、かつ年少読者の理解に便ならしめるために、任意に「あをうなばら」と改変したのであって、……
b.当夜の海上の景観に即応させるための貫之の改作であろう。
c.状況に合わせて「青海ばら」と変えたか。
「年少読者云々」は論外としても、『古今和歌集』の左注には、「海辺にて」別れの宴を催していたところに「月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て」とあるから、情景や状況はほぼ同じであり、「あをうなはら」に改変すべき理由がそこにあったとは考えられない。
名、おそろしきもの、あをぶち(青淵)、たにのほら(谷の洞)、はたいた(鰭板)、くろがね(鉄)、……〔枕草子〕
清少納言は、名前を聞くとゾッとするものとして、「あをぶち」を真っ先に挙げている。十二世紀初頭に編纂された図書寮本『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』には、「碧潭」に「アヲブチ」という和訓を添え、朱の声点(しょうてん)で、アクセントを[●●○○](高高低低)と示している。声点とは、文字の周囲に付けて抑揚を示した点のことで、左下は[低]、左上は[高]を表わす。声点については近著『いろはうた』(講談社学術文庫・第二章以下)に解説しておいたので参照していただきたい。
形容詞「アヲシ」のアクセントは[○○●](低低高)であり、複合語の語頭音節の高低はもとの語のそれと一致するのが原則であったから、「アヲブチ」の[ア]も[○](低)であることが期待されるにもかかわらず、「アヲブチ」は、その原則を破って[●●○○]と、高い音節で始まっている。
平安時代、「アヲ=」を先部成素とする複合語のアクセントは、つぎのふたつの群に分かれていた。
I.「アヲ=」が[○○]……アヲウリ(青瓜)、アヲト(青砥)、アヲノリ(青海苔)、アヲビエ(竹刀)、アヲヤカ(碧)
II.「アヲ=」が[●●]……アヲガヘル(青蝦蟇)、アヲグロナリ、アヲサバ(鯖)、アヲブチ(青淵)、アヲムシ(青虫)
複合語の原則どおりの語群Tは、いわばふつうのアヲ色であるが、原則に合わない語群Uは、どれも、不気味さを感じさせる。「アヲブチ」と聞いて清少納言の背筋が寒くなったのは、底知れぬ恐ろしい深みを思い浮かべたからである。平安時代には、不気味な情的意味(connotation)をもつ「アヲ=」の一群が、本来のアクセント型と対比的なアクセントをもつ語群を形成していたことがわかる。
そういうなかにあって、図書寮本『類聚名義抄』には、「阿乎宇奈波良」に[○●○(阿乎宇)

○●(波良)]という特異な声点が付いている。「奈」のふたつの声点のうち[●]はあとで加えたようにも見えるが、いずれにせよ、高い部分が二ヵ所、または三ヵ所に分かれているから単一の語ではなく、二語あるいは三語の連接である。日常語ではなかったから、加点した人物の認識に基づいたのであろう。[○●=]という特異な加点は、この「アヲ=」が、場面や文脈しだいで、どちらの意味にもなりえたことを示唆している。
どの注釈書にも「あをうなはら」について説明がないのは、この語を、〈青々と広がる海〉という程度に理解したからなのであろうが、仲麻呂にせよ貫之にせよ、海から昇った月の光に浮かび上がった青黒い海を
blue oceanと捉えて心を躍らせたはずはない。
老年に達した阿倍仲麻呂がなつかしい故郷の土を踏むためには、目の前に不気味に広がる果てしない海を、死を賭して渡らなければならなかったし、貫之もまた、荒れ狂う「アヲうなはら」に呑み込まれないことを祈りながら、毎日を船の上で過ごしていた。
貫之が「あまのはら」を「あをうなはら」に置き換えたのは、恐怖と隣り合わせの航海を読者に理解してほしかったからであり、また、仲麻呂の心境を思いやる形をとって、現にそのときの仲麻呂と同じ経験をしている不安を察してほしかったからである。
右に引用したどの注釈も、〈汝、何を知るや〉と慢心して、作者や作品を、そして、注釈書の読者をなめてかかっており、この置き換えが、貫之の練りに練った工夫であることに気づいていないし、貫之が和歌表現のために駆使していた仮名がどのような特質をもつ文字体系であったかを知る必要も感じていない。
「いろはうた」の末尾は、「浅き夢見し、酔(ゑ)ひもせず」とも読めるし、「浅き夢見じ、……」とも読めて、それぞれに意味がつうじるという一事を考えてみただけでも(『いろはうた』第一章)、清濁を書き分けない平安時代の仮名の特色を熟知していなければ和歌を読み解けないことがわかるはずである。それがわかっていれば、「かすかなる三笠の山」の解釈を考えなおすことができたかもしれないし、「任意に」あをうなばらと改変したなどと独断的に言ってのけずに済んだはずである。このような注釈からは、作者に対する敬意も、作品に対する愛情も感じとることができない。その最大の原因は、〈我、何を知るや〉という自省の欠如である。
古典文学の専門家は藤原定家を神格化して、定家自筆本があれば最優先で底本にしているが、それらのテクストが定家によって綿密に工夫された用字原理に基づいて表記されていることを知らない。仮名と漢字とを効率的に使い分ける定家の用字原理と、定家が与(あずか)り知らない「定家仮名遣」との違いもわきまえずに、契沖の提唱した歴史的仮名遣いに機械的に変換し(『いろはうた』第七章・第八章)、不用意に漢字を当てて書き換えたうえで解釈を考えているために、テクストが随所に歪曲されているのが現状である。
(こまつ・ひでお 筑波大学名誉教授、日本語学)